名城の痕跡を探して
- 2017/07/24
- 23:38
毎週土曜日放送、日本人皆が知るであろう
芸能人であり知識人、タモリさん。
そのタモリさんが自らの足で
街の成り立ちを紐解くテレビ番組が人気を
博しておりますが、ここ松本にも
昔の様相を感じることの出来る場所が有るのではないか・・・
という訳で、今回は松本城の公園化されていない、
「外縁部」の痕跡を辿って、そぞろ歩いてみましょう。

駅前から伸びるあがたの森通りから左へ。
松本城へと向かう本町通りの交差点に佇むのは、
街道の分岐点を示す碑。
左に書かれているのは、塩尻市付近から中山道と
別れ、長野市・善光寺へと至る「善光寺道」、
右側は松本から発し、山越えの後、岐阜県は
飛騨地方、高山市へと向かう「野麦街道」。
二つの道が交わるこの街が、古くから
交通の要衝として機能してきた事実を示す道標。

松本へ降りると、二回に一回は訪れる、四柱神社。
私にとって慣れ親しんだ場所ですが、
その門前にある広場、元々は松本城の一部
桝形という防御設備の跡であり、城を攻めんとする敵を
防ぐため、水堀、石垣、塀、そして屈折した路地の
奥には頑強な大手門が待ち構えていました。
いわば城の正面入り口。
防衛上とても重要な場所だったのです。
ちなみに四柱神社は明治時代創健。
現在の敷地は、江戸時代は水堀の中。

大手門跡
かつてはここに城の玄関たる堅牢な門が
建っていたのですが、明治の廃城令の折に
解体の憂き目に遭い、消滅。
平成の現在、駐車場と化しています。
石垣はなんと、堀にポイ捨てされたとか。無惨・・・

駐車場の端には、井戸水が湧き出ています。
快晴の下で飲む新鮮冷え冷えの水は、
効くぅ~

続いては、大手門駐車場から一本先の通りを
西進した先、住宅街の中に在る
西総堀公園
今現在の松本城には、天守群擁する本丸を取り囲む
内堀、その外・二之丸の防壁となる外堀という
二つの水堀が現存していますが、
もう一つ、城の外縁部、武家屋敷群をも取り込む
総堀という堀が設けられていました。
その総延長は二キロ近く。その内側には3.6mの土塁、
さらにその上には高さ2mを越える塀が続いており、
まさしく敵の眼前に立ち塞がる、一つの「要塞」の体を成しておりました。
この公園は、その総堀沿いに築かれた土塁の一部を
保存し、その概要を伝えるために整備されています。

土塁断面。本来の土塁は保存のために覆われ、
その上には植物が芽吹いています。
中央の図は、往時の寸法を表わすもの。

土塁左側。こちらは水堀の側に当たります。
説明板によると、土塁の際には木材を削った
杭が打ち込まれ、土塁を固める土の流出と、
城内への敵の侵入を防ぐ役割を担っていました。
防御施設に於いては洋の東西、時の近遠を問わず用いられてきた、
古典的かつ効果的な方策。

土塁の内側は武家屋敷の跡。
庭園や建物の配置が、水色の塗り分けによって再現されています。

同じ通りに残る、武家屋敷の門。
しかし裏側は駐車場、表側はゴミ捨て場となっており、
誰にも気付かれずに柵の内へと押し込められた姿からは、
哀愁すら感じられます。

不思議と屈折した道は、中世~近世の町ならでは。

武家屋敷跡の発掘現場。この辺りの町名は「土居尻」。
土塁の端、の意でしょうか。

国宝・松本城天守を遠望。
しかし今回はこちらには立ち寄らず、飽くまで外縁部を目指します。

城の北側に鎮座する松本神社
松本城の鎮守の社でもあります。
徳川将軍家の譜代家臣・戸田光重(みつしげ)が
伯父の霊を祀るため、播磨国(今の兵庫県南部)・明石城に
社を建てたのが始まり。
その後戸田氏が松本へ転封となった折、
共にこの地へ遷座となりました。
そこから戸田氏の祖先や功有る家臣たちも
祭神として列せられ、六柱(むはしら)の神を祀る
社として今に至ります。
「松本神社」の名称が定められたのは、昭和28(1953)年。
それまでは祭神ごとに異なる社名が付けられていました。

松本神社拝殿。
神社と言うより御殿のような造りが特徴的。

中央には徳川家の家紋・三つ葉葵。
そちらを強調する当たり、主家を信奉する譜代の
気風が現れています。

敷地のすぐ外に在るのは、松本神社前井戸。
その歴史はとても浅く、平成22(2010)年に新たに湧出した
というのだから、驚き。

松本神社門前。画面右側には、かつて城の搦手(からめて。裏手の意)を
固めた、北不開門(きたあかずのもん)が建っていました。
不開門の名は、裏手から敵兵が侵入することの無い様、
常日頃から開け放つことが無かったために付けられました。
こうした施設は各地の城でも見受けられます。

住宅地を貫く通り。実はここも土塁の跡。

北門大井戸
かつての城門付近に湧き出す井戸ですが、
ここでおもしろい発見が。

ご覧ください!
私が歩いてきた道路と井戸(ついでに公園も)、
これだけの高低差があります。
この辺りは北門の桝形に当たり、
建っている場所が土塁の上、
見下ろす井戸が堀の底。
埋め立てられた堀の跡地は高低差が是正された
場所も多いですが、こうして「城」の名残を
目にすると、ちょっと嬉しい気持ちになりますね。

この交差点は城の防御施設の一つ、馬出(うまだし)の跡。
門や桝形の外側に堀で囲った盛り土を設けることにより、
敵側から城内の動きを遮り、
敵兵の進入路を絞る、といった役割が有りました。
少し広がった路地が、それっぽい?

ついに辿り着きました!
城の東側、市役所の近くにわずかに残る、総堀
両側を覆う土塁も、昔の姿を今に伝えます。
残念ながら橋を挟んだ短い距離が現存するのみですが、
かつてはこの様な堀が松本城の外周全体を
囲んでいたのでしょう。
数多の櫓や門、武家屋敷等によって守られた
その光景は、さぞ壮観だった筈。
総堀を横目に歩いた先、上土通り付近に、
東門が有ったそうです。
上土(あげつち)、という町名ですが、東門周辺の
堀を築いた際、そこから出た土を上げたことに由来するそう。
城と町造りの密接な関係を窺わせます。

東門の馬出はこの辺り。
これまた想像力をくすぐる形をしています!

入り組んだ路地も、まるで侵入者を阻むかのよう。
ちなみに前回の記事で紹介した想雲堂付近が東門跡に
当たるようなのですが、全く面影は有りません
礎石すらも見つからない辺り、徹底した破壊の跡を
思わせます。

ここでも井戸水が湧いています。
これも或いは水堀の残滓でしょうか・・・

一回りしたところで、休憩。
この建物は松本市下町会館
昭和初期の建築で、老朽化による取り壊しの運命にあった
洋風建築物を移転・補修し、
下町地区の街並み環境整備事業の一環として
保存・活用されています。

一階はカフェスペース。
松本でも名の有る老舗洋菓子店・マサムラの
お菓子を、各種ドリンクと共に頂けます。
「ショコラ・オ・ショコラ」は、ふんわりとした口溶けと、
口いっぱいに広がるまろやかなチョコの風味が
楽しめる一品。
さて、今回は松本城の外縁部、および
武家屋敷地の痕跡を辿って歩いたわけですが、
パンフレットや観光案内によれば、
あがたの森通りを挟んで反対側は、
商人町が広がっていた様子。
次はそちらへ足を向けてみましょうか。
それでは!


485系改造のジョイフルトレイン、彩(いろどり)
芸能人であり知識人、タモリさん。
そのタモリさんが自らの足で
街の成り立ちを紐解くテレビ番組が人気を
博しておりますが、ここ松本にも
昔の様相を感じることの出来る場所が有るのではないか・・・
という訳で、今回は松本城の公園化されていない、
「外縁部」の痕跡を辿って、そぞろ歩いてみましょう。

駅前から伸びるあがたの森通りから左へ。
松本城へと向かう本町通りの交差点に佇むのは、
街道の分岐点を示す碑。
左に書かれているのは、塩尻市付近から中山道と
別れ、長野市・善光寺へと至る「善光寺道」、
右側は松本から発し、山越えの後、岐阜県は
飛騨地方、高山市へと向かう「野麦街道」。
二つの道が交わるこの街が、古くから
交通の要衝として機能してきた事実を示す道標。

松本へ降りると、二回に一回は訪れる、四柱神社。
私にとって慣れ親しんだ場所ですが、
その門前にある広場、元々は松本城の一部
桝形という防御設備の跡であり、城を攻めんとする敵を
防ぐため、水堀、石垣、塀、そして屈折した路地の
奥には頑強な大手門が待ち構えていました。
いわば城の正面入り口。
防衛上とても重要な場所だったのです。
ちなみに四柱神社は明治時代創健。
現在の敷地は、江戸時代は水堀の中。

大手門跡
かつてはここに城の玄関たる堅牢な門が
建っていたのですが、明治の廃城令の折に
解体の憂き目に遭い、消滅。
平成の現在、駐車場と化しています。
石垣はなんと、堀にポイ捨てされたとか。無惨・・・

駐車場の端には、井戸水が湧き出ています。
快晴の下で飲む新鮮冷え冷えの水は、
効くぅ~

続いては、大手門駐車場から一本先の通りを
西進した先、住宅街の中に在る
西総堀公園
今現在の松本城には、天守群擁する本丸を取り囲む
内堀、その外・二之丸の防壁となる外堀という
二つの水堀が現存していますが、
もう一つ、城の外縁部、武家屋敷群をも取り込む
総堀という堀が設けられていました。
その総延長は二キロ近く。その内側には3.6mの土塁、
さらにその上には高さ2mを越える塀が続いており、
まさしく敵の眼前に立ち塞がる、一つの「要塞」の体を成しておりました。
この公園は、その総堀沿いに築かれた土塁の一部を
保存し、その概要を伝えるために整備されています。

土塁断面。本来の土塁は保存のために覆われ、
その上には植物が芽吹いています。
中央の図は、往時の寸法を表わすもの。

土塁左側。こちらは水堀の側に当たります。
説明板によると、土塁の際には木材を削った
杭が打ち込まれ、土塁を固める土の流出と、
城内への敵の侵入を防ぐ役割を担っていました。
防御施設に於いては洋の東西、時の近遠を問わず用いられてきた、
古典的かつ効果的な方策。

土塁の内側は武家屋敷の跡。
庭園や建物の配置が、水色の塗り分けによって再現されています。

同じ通りに残る、武家屋敷の門。
しかし裏側は駐車場、表側はゴミ捨て場となっており、
誰にも気付かれずに柵の内へと押し込められた姿からは、
哀愁すら感じられます。

不思議と屈折した道は、中世~近世の町ならでは。

武家屋敷跡の発掘現場。この辺りの町名は「土居尻」。
土塁の端、の意でしょうか。

国宝・松本城天守を遠望。
しかし今回はこちらには立ち寄らず、飽くまで外縁部を目指します。

城の北側に鎮座する松本神社
松本城の鎮守の社でもあります。
徳川将軍家の譜代家臣・戸田光重(みつしげ)が
伯父の霊を祀るため、播磨国(今の兵庫県南部)・明石城に
社を建てたのが始まり。
その後戸田氏が松本へ転封となった折、
共にこの地へ遷座となりました。
そこから戸田氏の祖先や功有る家臣たちも
祭神として列せられ、六柱(むはしら)の神を祀る
社として今に至ります。
「松本神社」の名称が定められたのは、昭和28(1953)年。
それまでは祭神ごとに異なる社名が付けられていました。

松本神社拝殿。
神社と言うより御殿のような造りが特徴的。

中央には徳川家の家紋・三つ葉葵。
そちらを強調する当たり、主家を信奉する譜代の
気風が現れています。

敷地のすぐ外に在るのは、松本神社前井戸。
その歴史はとても浅く、平成22(2010)年に新たに湧出した
というのだから、驚き。

松本神社門前。画面右側には、かつて城の搦手(からめて。裏手の意)を
固めた、北不開門(きたあかずのもん)が建っていました。
不開門の名は、裏手から敵兵が侵入することの無い様、
常日頃から開け放つことが無かったために付けられました。
こうした施設は各地の城でも見受けられます。

住宅地を貫く通り。実はここも土塁の跡。

北門大井戸
かつての城門付近に湧き出す井戸ですが、
ここでおもしろい発見が。

ご覧ください!
私が歩いてきた道路と井戸(ついでに公園も)、
これだけの高低差があります。
この辺りは北門の桝形に当たり、
建っている場所が土塁の上、
見下ろす井戸が堀の底。
埋め立てられた堀の跡地は高低差が是正された
場所も多いですが、こうして「城」の名残を
目にすると、ちょっと嬉しい気持ちになりますね。

この交差点は城の防御施設の一つ、馬出(うまだし)の跡。
門や桝形の外側に堀で囲った盛り土を設けることにより、
敵側から城内の動きを遮り、
敵兵の進入路を絞る、といった役割が有りました。
少し広がった路地が、それっぽい?

ついに辿り着きました!
城の東側、市役所の近くにわずかに残る、総堀
両側を覆う土塁も、昔の姿を今に伝えます。
残念ながら橋を挟んだ短い距離が現存するのみですが、
かつてはこの様な堀が松本城の外周全体を
囲んでいたのでしょう。
数多の櫓や門、武家屋敷等によって守られた
その光景は、さぞ壮観だった筈。
総堀を横目に歩いた先、上土通り付近に、
東門が有ったそうです。
上土(あげつち)、という町名ですが、東門周辺の
堀を築いた際、そこから出た土を上げたことに由来するそう。
城と町造りの密接な関係を窺わせます。

東門の馬出はこの辺り。
これまた想像力をくすぐる形をしています!

入り組んだ路地も、まるで侵入者を阻むかのよう。
ちなみに前回の記事で紹介した想雲堂付近が東門跡に
当たるようなのですが、全く面影は有りません
礎石すらも見つからない辺り、徹底した破壊の跡を
思わせます。

ここでも井戸水が湧いています。
これも或いは水堀の残滓でしょうか・・・

一回りしたところで、休憩。
この建物は松本市下町会館
昭和初期の建築で、老朽化による取り壊しの運命にあった
洋風建築物を移転・補修し、
下町地区の街並み環境整備事業の一環として
保存・活用されています。

一階はカフェスペース。
松本でも名の有る老舗洋菓子店・マサムラの
お菓子を、各種ドリンクと共に頂けます。
「ショコラ・オ・ショコラ」は、ふんわりとした口溶けと、
口いっぱいに広がるまろやかなチョコの風味が
楽しめる一品。
さて、今回は松本城の外縁部、および
武家屋敷地の痕跡を辿って歩いたわけですが、
パンフレットや観光案内によれば、
あがたの森通りを挟んで反対側は、
商人町が広がっていた様子。
次はそちらへ足を向けてみましょうか。
それでは!


485系改造のジョイフルトレイン、彩(いろどり)