fc2ブログ

記事一覧

越前旅15 ~福井城本丸、外周さんぽ~

綾瀬はるかさん、入院

未だ続くコロナ禍の中、
珍しくもなくなった芸能人の罹患のニュースですが、
「病床数の不足」から入院患者の選別
行われている状況からか、
今回は猛バッシングが発生。

まるで「選ばれた特権階級の象徴」であるかのような
凄まじい個人口撃に晒されたと言います。

だが、待ってほしい

長引く「自粛生活」や「停滞ムード」の中で
溜まった鬱憤を晴らしたい・・・
その気持ちも分からなくはない。

しかし本来批判の矛先を向けられるべきは
事実上医療崩壊と呼べる状況でも
(一年以上前から)効果的かつ能動的な施策を見出せない
政府や都政などの゛執行機関″に対してであり、

いくら゛優先権″を与えられているとはいえ、
一個人にその責を求めるのは
あまりにというもの。

(無論世間と大いにズレた認識を抱き、
呆れた言動や行動を取り続ける
゛権力者たち″の振る舞いには、
少しの同情の念も湧きはしないが)

確かに(言い方は悪いが)
命が切り捨てられている」という現状は
到底許容し得るものではないものの、

大局に基づいた視点でなく一時の感情のみで、
しかもストレスのはけ口のような形で
あたかも「世界の敵」と見做すような
バッシングが繰り返される様子は、
果たして言論として正しい在り方と言えるのでしょうか?

日々膨大な情報が流れる現代社会。
目まぐるしいスピードで正誤を問わぬ
情報がやり取りされる中で、
何を是とし何を非とするか

その在り方と扱い方を、
今一度見直すべきではないでしょうか?


既に二回に亘ってお届けしている、
「越前一の城」・福井城。
福井城 3-1
天守台東面から土塀に続いていた石段に沿って
歩いて行くと、本丸北側の出入り口であった、
北不明御門(きたあかずごもん)跡に
辿り着きます。

ここは本丸の裏手、すなわち搦手(からめて)に
位置しており、
正面入り口である南側の瓦御門とは
対をなす存在。

不明(あかず)とは普段開かれていないことを
意味しており、
このことから平常時は厳重に施錠され、

合戦時に藩主やその家族を逃がすための
としての利用が想定されていたものと
思われます。
福井城 3-2
天守台横から伸びていた石垣は、
ここで一段盛り上がり櫓台となっています。

現在では車両を通すために一部の遺構は
取り去られた状態となっていますが、
かつてはこの南側(写真左手)に対となる櫓台が設けられ、
その間に山里口御門のような櫓門が、
侵入者を拒むように構えられていました。
福井城 3-3
こちらは艮櫓(うしとらやぐら)の櫓台。

艮櫓は本丸北東隅、北不明御門に隣接して
建てられていた二重櫓

残念ながら古写真にはその姿は
捉えられていないようですが、
ともに本丸を固めていた巽櫓(たつみやぐら)や
坤櫓(ひつじさるやぐら)の様子から、

「天守の代用」とされた両櫓には及ばないものの、
重厚な拵えに破風で着飾った、
「親藩の城」に相応しい造りであったと思われます。
福井城 3-4
内堀を渡り、旧二の丸へ。

ここからは内堀に沿って散策の起点である
山里口御門付近まで、ぐるっと一回り。
福井城 3-5

福井城 3-6
壮麗な石垣が連なる様は、圧巻!
福井城 3-7
遊歩道の下、内堀際にこっそり残る石垣。
福井城 3-8
本丸南側へ出て来ました。
福井城 3-9
本丸南東隅に突き出た石垣は、
本丸に三基建てられていた櫓の一つ、
巽櫓(たつみやぐら)の跡。
福井城 3-10
古写真に残る、巽櫓の雄姿。

巽櫓は本丸南面、および東面を守備していた
三重櫓で、
築城当初は艮櫓同様二重であったものの、
天守同様寛文9(1669)年の大火により
一度焼失

その後再建されたものの、
幕府より天守再建の許可が下りなかったことから
天守の代用として三重櫓へ改められ、
城が取り壊される明治初期まで残存していました。

写真では天守さながら各所に破風が配され、
頂部に(シャチ)が載せられている様子が
確認出来ます。
(これだけでも復元できないかなぁ~?)
福井城 3-11
似たような角度で撮ってみた。
(ちょっと寄せ過ぎたか 笑)
福井城 3-12
この巽櫓を望むところに設けられた小さな公園・
福井城内堀公園

ここに並んで建てられているのは、
激動の幕末に福井藩を思想面・政治面から支えた
二人の人物の銅像。

左の横井小楠(よこい しょうなん)は、
肥後国(熊本県)熊本藩の出身。

若年より学問や思想を修め、
熊本藩より江戸遊学(留学)を命じられるなど
才を発揮していた小楠。

肥後藩では「実学(実用的な学問)」を基に
藩政改革を訴えますが、受け入れられずに挫折

失意の中にあった小楠に声を掛けたのが、
時の越前福井藩主・
松平慶永(まつだいら よしなが。春嶽)公。

慶永の求めで嘉永5(1852)年に初めて
越前に招かれた小楠は、
慶永に学政一致の道徳政治の担い手たることを求めた意見書・
学校問答書を提出。

以後も越前藩に度々招かれると、
安政5(1858)年には慶永(この頃から「春嶽(しゅんがく)」を
名乗るようになる)の求めに応じて越前藩の政治顧問
また藩校・明道館(めいどうかん)の校長に就任し、

藩政改革と三岡八郎(みつおか はちろう)ら
藩政を担い得る人材の育成に尽力。

文久2(1862)年に春嶽が幕府の政事総裁職に就任すると、
小楠はその右腕として
・将軍が京へ赴き、開国に関わる安政期の非礼を
天皇に詫びること
・参勤交代制の廃止
・出自に関わらず、能力ある人物を幕政に起用すること
・海防強化
などの献策を記した国是(こくぜ)七カ条
起草する等、幕政改革にも大いに尽力しました。

明治新政府樹立後も政権運営を担っていた
岩倉具視(いわくら ともみ)の信任を受けて
役職を務めていた小楠でしたが、

明治2(1869)年、京都にて小楠を「欧米の信奉者」とする
攘夷論者たちに襲われ、死去
享年61。


一方福井藩士として生まれた三岡八郎
(みつおか はちろう。のち由利公正(ゆり きみまさ)を名乗る)は、
福井に招かれた横井小楠より財政学を学ぶと、
藩主・松平春嶽に抜擢されて藩政改革に尽力。

春嶽が幕府政事総裁職に就任すると、
側用人として近侍。

明治維新目前の慶応4(1868)年には
新政府の基本方針を明記した誓約書・
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)の
起草に当たり、

その原案となる議事之体大意を作成する等、
新政体の設立にも大きな役割を果たしました。

維新成りし後は新政府の財政責任者に任じられ、
太政官札(だいじょうかんさつ。
明治政府下で発行された最初の紙幣)の
発行などに尽力したものの上手く行かず、
明治2(1869)年に政府の役職を辞職

その後は東京都知事に就任して
銀座通りを整備したり、
元土佐藩の板垣退助(いたがき たいすけ)、
後藤象二郎(ごとう しょうじろう)らとともに
民選議会の設立を提言した

民撰議院設立建白書
(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)に
名を連ねる等政界で活躍を続け、
明治42(1909)年に81歳で亡くなりました。

共に動乱の時代に有能な主に見出され、
福井のため、また国政のために
その身を捧げた志士たち。

師弟関係でもあった二人は、
今は゛主の城″であり活躍の場でもあった
福井城本丸を前に、
語らうように肩を並べています。
福井城 3-13
福井城内堀公園」を過ぎて見えて来るのが、
御本城橋(ごほんじょうばし)と
瓦御門(かわらごもん)跡。

本丸南面、本丸御殿へと続く通路上に
位置しており、
ここが本丸への正面入口に当たります。

橋を渡った先に在った瓦御門
本丸内の他の城門と同様
二つの門が枡形を形成しており、
手前に高麗門(こうらいもん。二本の柱の後方に
小屋根を載せた門の形式)形式の御門

その先に警備を担当する番士たちが
詰めていた御番所

道を曲がった先に
本丸内の城門でも一際大きな造りとなっていた
櫓門・瓦御門が控えていました。

「瓦御門」へと至る御本城橋
かつては城郭内の橋梁としては一般的な
木橋でしたが、
現在では下部に円弧を用いた
石造橋となっています。
福井城 3-14
明治初期に撮られた、瓦御門と御本城橋の姿。

本丸正門に相応しい格式を誇った瓦御門は、
横16間余(約28.8m)、奥行き4間余(約7.2m)の
規模を誇っており、

二の丸から近付いて来た者には
両側に控える巽櫓、坤櫓とともに
威圧感を持って映ったのでは
ないでしょうか。
福井城 3-14.5
御本城橋を渡ってスグのところに残る、
御門の台座。
福井城 3-14.75
御門の後ろに残る、瓦御門南側の櫓台。

整然と積み上げられた切込みはぎの石垣が、
櫓門の規模と重要性、
その造りの堅牢なる様を表しています。
福井城 3-15
瓦御門を抜けた先、かつて藩政を司る゛政庁″であり、
藩主が居住した゛公邸″でもあった
本丸御殿の跡には、
福井県庁舎や福井県警察本部等、
現代の官公庁舎が並びます。
福井城 3-16
これらの庁舎をバックに堂々たる騎乗姿を
見せてくれているのが・・・
福井城 3-17
越前福井藩の藩祖・
結城秀康(ゆうき ひでやす)公。

天正2(1574)年、のちに天下人となる
徳川家康の次男として遠江国
(とおとうみのくに。静岡県西部)・浜松城にて
生を受けた秀康公。

しかし家康公の正室・築山殿(つきやまどの)の
お付きの女中さんであった於万の方
(おまんのかた。のち正式に家康公の側室となる)が
生母であったこと、

当時忌み嫌われていた「双子」での
出生であったことから、
幼少期より徳川家中では
微妙な立場に置かれていたようです。

天正12(1584)年、
小牧・長久手の戦い後に徳川家と
対立していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との
和睦が成立すると、

その引き換えとして長子の立場
(兄・松平信康(まつだいら のぶやす)は、
織田信長の命により天正7(1579)年に
自刃していた)にあった秀康公は
秀吉の元へと養子(という名の人質)に出され、
同年元服(成人)。

養父秀吉より「秀」の字を頂戴し、
羽柴秀康を名乗ります。

羽柴(→豊臣)家中でその武勇と胆力を
遺憾なく発揮した秀康公は、
九州攻め小田原征伐でも戦功を挙げ、
秀吉からの信任を獲得。

しかし天正17(1589)年、
秀吉に実子・鶴松(つるまつ)が誕生すると
今度は下総国(しもうさのくに。千葉県北部および
茨城県西部)の一領主・結城晴朝(ゆうき はるとも)の元へ
再度養子に出され、結城秀康と改名。

慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが勃発すると、
石田三成(いしだ みつなり)討伐のために西上する
父・家康より会津から関東を窺う
上杉氏への押さえを命じられ、
下野国(栃木県)宇都宮城に駐屯。

家康公が天下分け目の大戦を制するまで、
その役目を全うしました。

戦後秀康公は対上杉の総大将を勤め上げたことが
評価され、下総結城11万1,000石から
越前北ノ庄(のちの福井)68万石へと大出世
果たします。

大藩の領主として、また徳川一門に名を連ねる一人として
存在感を発揮していた秀康公でしたが、
持病の梅毒(ばいどく。性的接触などによる感染症。
ただし秀康公の場合は母子感染による先天的なもの)の
症状が悪化したことから、
慶長12(1607)年に34歳の若さ死去

(元々の徳川家中での秀康公の立ち位置と
父・家康公も認める武勇と機転、生来の胆力、
仇敵・豊臣家に近しい立場などから、
豊臣家討滅の前に排除された可能性も・・・)

遺領は嫡男の松平忠直(まつだいら ただなお)公が相続し、
以後幕末まで越前福井藩・松平氏の
家名と治政が続くこととなりました。
福井城 3-18
「県都・福井」の礎を築いた偉人に敬意を表した後は、
石垣に取り付けられた木製階段の上へ。
福井城 3-19
階段を上がった先、石垣上は散策路
(という割に、歩ける範囲は僅かですが・・・)となっており、
瓦御門の櫓台に立ち入ることが可能!
福井城 3-20
櫓台からの眺め。

現在では半分あまりが取り壊されてしまっていますが、
かつては写真を撮っている南側の櫓台から
赤線で囲った部分、石積みで示された範囲まで、
瓦御門が広がっていました。
(再整備すれば櫓門の復元も可能かと思われますが、
如何に・・・!?)
福井城 3-25
瓦御門櫓台から続く石垣は、
多聞櫓(たもんやぐら)と呼ばれる平屋建ての櫓が
建てられていた痕跡。

この多聞櫓は東南隅の巽櫓まで
細長く伸ばされ、
巽櫓・瓦御門と一体となった防衛線を構築していました。
福井城 3-23
本丸南西隅より。
遠くに御廊下橋が見えています。

手前の櫓台は巽櫓とともに「天守の代用」として
三重に改築された、
坤櫓(ひつじさるやぐら)の跡。

こちらは古写真は残されていませんが、
巽櫓同様破風や鯱で飾られた、
「親藩大名」を象徴する豪奢な造りであったと
思われます。
福井城 3-24
ここでも目立つ、石垣のはらみ

参考:熊本歴史・人物散歩道
    刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館 刀剣ワールド
    コトバンク
    Wikipedia

「越前旅」編
1日目
第1回 第2回 第3回 第4回
2日目
第5回 第6回 第7回 第8回
3日目
第9回 第10回 第11回
4日目
第12回 第13回
第14回 ~福井城天守台~

福井城跡

アクセス
(瓦御門跡まで)
JR福井駅西口から 徒歩約5分

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。