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越前旅18 ~北ノ庄城址・柴田公園~

福井県福井市
敦賀など「嶺南地域」と山ひとつ隔てた
福井県中~北部、嶺北地域に属する街で、

東西約56km、南北約28km、周囲約20万4,437km、
面積536.41㎢の範囲に、
約10万6,000世帯、およそ26万人
居住しています。

市域は九頭竜(くずりゅう)、足羽(あすわ)、日野
三大河川によって形成された沖積平野
(ちゅうせきへいや。主に河川による
堆積作用によって形成される地形)
である福井平野上に発達。

福井平野は3000年前の
縄文時代後期から晩期にかけて形成され、
弥生時代には既に一部で農耕も可能な環境に
なっていたとされており、

古墳時代には越前へ下向(げこう)した皇統26代・
継体天皇(けいたいてんのう)による治水・土地開発が
なされたという逸話も残されています。

そんな恵まれた地勢と
畿内(近畿地方)に近い地理的優位性から、
北陸道でも要衝としての地位を占めていた福井地域。

中世に入ると市域南東の山間に在る集落・
一乗谷(いちじょうだに)を本拠地とする戦国大名・
朝倉氏が台頭。

5代103年間に及ぶ統治の中で一乗谷は小京都
呼ばれるほどに文化的・経済的発展を遂げましたが、
のちの゛天下人″・織田信長に攻められ
天正元(1573)年に朝倉氏は滅亡


混乱の中で栄華を極めた一乗谷の町も灰燼(かいじん)と化し、
時を経てその遺跡が国の特別史跡、残された庭園特別名勝に、
出土品が重要文化財にそれぞれ指定された、
一乗谷朝倉氏遺跡となっています。

朝倉氏滅亡後に越前国主となった
織田氏重臣・柴田勝家(しばた かついえ)によって
城(北ノ庄城)と城下町が形成されていた福井地域は、

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いを制して
新たな゛天下人″となった徳川家康の次男・
結城秀康(ゆうき ひでやす)公が
68万石の領主となって入封。

新たに生まれた越前松平氏、そして福井藩の下で
城の改築と城下町の拡充が図られ、
三代忠昌(ただまさ)公の頃には福井と改名。
江戸時代を通して所領の増減を伴いながら
「越前福井藩」としての治政が続きました。

約260年の「泰平の世」が崩れて
明治の新体制が起こった後の明治22(1889)年には
市制が施行され、福井市が誕生。
当時人口は現在の6分の1ほどの3万9863人
面積も134分の1(!)となる、4.43㎢ほどでした。

以来「県都」として発展を続けて来た福井市。
第二次大戦中の福井空襲
戦後の福井地震といった困難を乗り越え、
福井県の政治、経済、文化の中心地として、
北陸の主要都市の一つとして
存在感を発揮し続けています。


6.10 Thursday
柴田神社 1
そんな「県都・福井市」、滞在二日目の朝。
柴田神社 2
「ホテルフジタ福井」の客室から
清々しい朝の陽射しに包まれた福井市街を眺め
柴田神社 3
庭園を望むレストランで
バイキング形式の朝食を頂いてから・・・
柴田神社 4
散策に出発!
柴田神社 5
この日最初の目的地は、
ホテルから徒歩10分ほどのところに在る・・・
柴田神社 6
柴田公園

足羽川(あすわがわ)の畔を起点として
市街地中央を抜けて国道158号線へと繋がる
城の橋通りに面し、
住宅や雑居ビルに囲まれた公園施設

キレイに整備された広場のように見えますが、
実はココ、福井城の前身となった戦国時代の城・
北ノ庄城(きたのしょうじょう)の跡地!
柴田神社 25
天正元(1573)年の朝倉氏滅亡後、
朝倉旧臣同士の争いや越前一向一揆の発生により
混乱状態に陥っていた越前国。

天正3(1575)年に一揆勢を駆逐した織田信長は、
北陸方面の主将として
織田家重臣・柴田勝家(しばた かついえ)に
越前49万石を与えます。

これを受けて前田利家(まえだ としいえ)・
佐々成政(ささ なりまさ)ら与力
(よりき。有力武将の配下に付けられた武将の呼び名。)を率いて
北陸入りした勝家公は、
足羽川吉野川の合流点に築城を開始。

現在の柴田公園付近にその本丸が
置かれていたのだそう。

その規模は主君・信長の居城でもあった
あの安土城にも匹敵
(あるいは凌ぐ)するものであり、

この地を訪れたポルトガル人宣教師、
ルイス・フロイスによれば
「この城は甚だ立派で、今大きな工事をしており
(勝家公存命中、城が完成を見ることは無かった
言われています)、
(中略)城および他の家の屋根がことごとく
立派なで葺いてあって、
その色により一層城の美観を増した」とのこと。

その中心に聳えていた天守
屋根をすべて笏谷石で葺かれ、
「九重」の壮大なものであったそう。
その威容は織田の勢威を北陸諸国に示すとともに、
勝家公による越前統治の象徴として
君臨していたことでしょう。

こうして北陸攻略・支配の拠点として
機能して行くかに見えた北ノ庄城でしたが、
天正11(1583)年に勝家公が賤ケ岳の戦い
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗れると、
戦勝に乗じた軍勢が一挙に北ノ庄城下にまで侵攻。

敗戦からわずか4日後の旧暦4月24日、
勝家公はお市の方(勝家夫人。信長の妹に当たる)や
配下の家臣たちとともに自害

城はに包まれ、
「九重」の天守ともども焼け落ちてしまいました。

戦後は勝家公と同じく織田家重臣の地位に在った
丹羽長秀(にわ ながひで)が入城して
城の修築に励み、
のち堀秀政(ほり ひでまさ)、青木一矩(あおき かずのり)と
城主は変転。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、
西軍に付いた青木氏は所領没収
(東軍に付いたが、一矩の病死により
没収されたという異説アリ)となり、
その後に結城秀康(ゆうき ひでやす)が
68万石を以て入封。

新たに越前領主となった秀康公は
城の大規模改修に着手することとし、
戦国期の北ノ庄城は廃城

建築物や石垣は残らず破却され、
「勝家公の城」の痕跡は完全に失われてしまいました。
(それによって捻出された建材や石材は、
そのまま新たな北ノ庄城(のちの福井城)へと
転用されたことでしょう)
柴田神社 7
・・・と書きましたが、
実はこの柴田公園内に僅かながら
柴田氏北ノ庄城の痕跡が残されています。
それが公園内の凹地底に並ぶ、こちらの石列。

これは戦国北ノ庄城で城(本丸)の南側に
築かれていた、石垣の跡。

発掘調査ではこの付近に幅25mにも及ぶ
大規模ながあったことが確認されており、
壮大なる「勝家の城」の一端を覗かせる
貴重な遺構となっています。
柴田神社 8
一方わりかし形の残ったコチラの石垣は、
戦国北ノ庄城に代わって築かれた
福井城のもの。

この石垣は、三の丸のさらに外側の曲輪への
出入り口となっていた城門・日向門(ひゅうがもん)の
枡形を構成していた土居
(どい。土で築かれた築堤。すなわち土塁)の一部。

窪んだ部分は二の丸東側(現在の福井駅付近)から
伸びていた広大かつ長大な水堀
百閒堀(ひゃっけんぼり)の南端付近に
接していました。

石材には城内中心部と同様笏谷石が用いられ、
石材を加工して積みやすくした、
打ち込みはぎによって積み上げられています。
柴田神社 9
広場の中央付近には、日向門の痕跡も
残されています。

この門は城の外郭部分の南東隅に位置し
城外側への出入り口となっていましたが、
近くにあった漆門(鳩の門)と異なり
櫓門が置かれなかったことから、
防衛上あまり重視されていなかった模様。
(おそらくそちらが曲輪への正面入口だったのでしょう)

発掘調査後柴田公園として
整備するに当たり、
礎石の痕跡を視覚的に示す取り組みが
なされています。
(点々と配された円形のマークがそれ)

絵図と比べてみると、奥に見える石垣も
日向門を固めていた土居
一部だった様子。(よく残ってたな)

戦国時代にはこの付近に天守が建っていたそうで、
城域が異なるとはいえ、
その零落ぶりがなんだか悲しい(泣)
柴田神社 10
勝家公が北ノ庄城と並んで福井(北ノ庄)の地に残した、
もうひとつの事績。

その痕跡を示すのが、柴田公園内に残されている
石造の欄干。

これは北陸道足羽川の交点に架橋され、
今でも市街地中心部と足羽地区を結ぶ
交通の要所となっている橋梁、
九十九橋(つくもばし)で使用されていたもの。

かつては橋の半分をで、半分をで構築された
半石半木(はんせきはんぼく)の珍しい橋として
知られたという名橋で、

記録では朝倉氏時代にも同じ位置に
橋が架けられていたそうなのですが、
これを半石半木に改めたのが、勝家公

江戸時代前期・貞享2(1685)年に執筆された
「越前国地理指南」によれば、
「長さ八拾(十)八間(約159.3メートル)、幅三間(約5.4メートル)、
板橋(木材部分)四拾七間(約85メートル)、
石橋(石材部分)四拾一間(約74.2メートル)と
大層規模の大きな橋であったことが分かります。

石橋部分は全て笏谷石
成形されており、
橋脚の長さはおおよそ2.5~2.8メートルであったと
推定されています。

半石半木の橋としては江戸時代二百数十年の間に
十回以上の架け替え工事を受け、
最後の工事は安政元(1854)年。

明治7(1874)年に半石半木の橋として
最後となる架け替え工事が行われ、
明治42(1909)年に木造トラス橋へと改められました。
(現在は鉄筋コンクリート桁橋となっています)
柴田神社 11
九十九橋の古写真。
河原河道の接点を境として、
左右で構造が変わっているのが分かります。

何故このような構造になったかについては
1.半分を壊しやすい木造とすることで、
城下への敵の侵入を妨げる防衛上の理由から

2.フル石造とすると橋脚の数が増えて流れを妨げるため、
河道に当たる北側を木造とした
技術的な理由から

3.上記の通り石造とすると橋脚の間隔が狭くなるため、
舟を通しやすくするためという水運上の理由から

4.洪水発生時、全て石造だと全壊してしまい
修復に手間が掛かることから、
河道部分を補修の容易な木造としたという
経済面の理由からと、諸説あるそうな。
(戦国時代はともかく、江戸以降は
4番が理由としてもっとも近いように思えます)

また政敵・羽柴秀吉との戦いに敗れ、
無念の死を遂げた勝家公の逸話から、
勝家公が自害した
旧暦4月24日の丑の刻(午前1時~3時ごろ)には
柴田家の旗印を掲げた
首なしの武者行列が現れ、
それを見た者は必ず〇ぬ
という怪異譚が、
まことしやかに語られていたそうな。

(木造トラス橋への架け替え以後は
現れなくなったそうなので、ご安心を)
柴田神社 12
現在柴田公園に残されている欄干は、
半石半木だった頃に使われていた実物

市内在住の個人から福井市へと寄贈され、
勝家公ゆかりの場所に保存・展示されています。
柴田神社 14
柴田公園内に奉斎された、柴田神社

名前の通りここに城を築いた「開創の士」・
柴田勝家公を祭神として祀る神社で、
創建年代は不明
(勝家公を慕い、その末路を哀れに思う
地元の人々が、いつからか土地の偉人を
祀るようになったのかも知れません)

現在の社殿は戦時中の福井空襲
復興途上に発生した福井地震といった
戦災・天災を乗り越え、
昭和37(1962)年に再建されたもの。
(にしては新しいような・・・?
拝殿だけ最近建て替えたのかな?)

そして、この「柴田神社」の前に
堂々たる姿を現しているのが・・・
柴田神社 13
北ノ庄城築城の主にして、柴田神社の御祭神でもある、
柴田勝家公その人!

尾張守護・斯波氏(しばし)の流れを汲む家系に生まれ、
織田信長の父・信秀(のぶひで)に見出されて
織田家に仕えることとなった勝家公。

信秀死後はその次男(信長の弟)・
織田信行(おだ のぶゆき)に仕え、
信行が兄に反旗を翻すと主に従い
信長打倒に尽力しましたが、

愛知県名古屋市・城山八幡宮付近を舞台とした
稲生の戦い(いのうのたたかい)で信行軍が敗れると、
主とともに降伏
これが許され、織田家への帰参を果たすことになりました。

こうして信長直臣に居直った勝家公は、
飛躍を遂げる織田家の家老として、
また掛かれ柴田鬼柴田の異名で敵味方より
恐れられた猛将として、
各地で展開された戦で活躍。

天正3(1575)年に越前一向一揆を滅ぼし
越前を織田氏の支配下に取り戻すことに成功すると、
その功から越前49万石の主、
さらに織田氏北陸方面軍の司令官に任じられ、

前田利家(まえだ としいえ)、佐々成政(ささ なりまさ)ら
与力を駆使しながら、
武家に代わって加賀国(石川県南部)を支配していた
加賀一向一揆の討伐や上杉軍との戦いを指揮。
その傍ら、居城となる北ノ庄城の築城を進めました。

しかしながら、天正10(1582)年の
本能寺の変で主君・信長が横死を遂げると、
状況は一変。

越中国(富山県)・魚津城(うおづじょう)を攻囲していた勝家は
主君の敵討ちに間に合わず、
上杉軍の反撃に対応する間に
織田家中の「ライバル」であった羽柴秀吉が
山崎の戦いで゛謀反人″・
明智光秀(あけち みつひで)を斃してしまいます。

残された重臣たちで織田家の後事を定めた
清須会議でも「政敵」・秀吉に
主導権を握られてしまった勝家公。

浅井家滅亡により「未亡人」となっていた
信長の妹・お市の方との婚姻が認められて
束の間の幸せを得ましたがそれも長くは続かず、

天正11(1583)年の賤ケ岳の戦い
秀吉に敗れた勝家公は、北ノ庄城へ退却。
しかしそこも戦勝に乗じた秀吉軍によって
すぐに取り囲まれ、
四面楚歌の中でお市の方とともに自害
享年62。


深くしわが刻まれ、髭を蓄えた様は
老境を迎えた晩年のそれを思わせますが、
対面する者を圧するような威厳と
堂々たる居住まいは、主の゛天下獲り″を支え、
数多の猛者と渡り合った、
猛将・勝家のイメージにピッタリ!
柴田神社 15
柴田神社拝殿。

のちの「県都・福井」の礎を築き、
歴史にその名を残した武人を悼み、
懇ろにお参り。
柴田神社 17
境内には、勝家公ゆかりの人の姿が他にも。

勝家公像の傍に佇む三人の少女の像。
これは北近江(滋賀県北部)の戦国大名・
浅井長政(あざい ながまさ)とお市の方の間に生まれ、
のちお市の方に従い勝家公の養子となった
いわゆる浅井三姉妹(あざいさんしまい)のもの。

左から長女・茶々(ちゃちゃ)、
三女・(ごう)、次女・(はつ)。

小谷城(おだにじょう。浅井長政の居城)と
北ノ庄城の二城の落城
そして実父と養父の死
(北ノ庄城では母・お市の方も喪っています)を経験した
姉妹たちはその後も戦国の定めに翻弄され、

長女・茶々は父の仇である゛天下人″・
豊臣秀吉の側室となり、
その後継ぎとなる拾(ひろい。のちの豊臣秀頼)を産んで
秀吉の死後「淀殿」と称されて
事実上の大坂城の主となりますが、

徳川家康との対立を経て大坂夏の陣にて自害
三姉妹で唯一
天寿を全うすることは叶いませんでした。

次女のは北近江の元の領主であり、
没落していた京極家の主・
京極高次(きょうごく たかつぐ)の下へ嫁入り。

夫・高次は豊臣政権下で近江国・大津城、
関ヶ原の戦い後は若狭国(福井県南西部)一国・
小浜城の主として大名に返り咲きました。

夫の死後出家して常高院(じょうこういん)を名乗った初は、
姉妹の縁から対立を深める豊臣家と徳川家の
仲介に奔走。

しかしその努力も実らず、前述の二城に加えて
大津城(西軍に攻囲され、関ケ原本戦当日に開城)、
姉が籠もった大坂城の四城落城
(+姉の死)を見届けることになりました。

三女・は初めは尾張国(愛知県西部)知多郡の領主・
佐治一成(さじ かずなり)、
次いで豊臣秀吉の甥で養子でもあった
豊臣秀勝(とよとみ ひでかつ)に嫁いだ後、
徳川家康の次男・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の
下へと輿入れ。

徳川家が天下の主となると二代将軍・秀忠の
御台所(みだいどころ。将軍正室)となり、
江戸城中における勢威を獲得。

夫・秀忠との間にのちの三代将軍・家光(いえみつ)や
次男・忠長(ただなが)、
後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となる
和子(まさこ)などの子を成し、
三姉妹で唯一後代に子孫を残すこととなりました。
(その血筋は今も天皇家へと繋がれています)
柴田神社 17.5
「柴田神社」本殿の隣に建てられた
三姉妹神社は、
その名の通り「浅井三姉妹」を祀る神社。

非情なる戦国の定めに翻弄され、
それぞれの運命を辿ることになった三姉妹。
今は養父・勝家公の傍で、
静かに訪う人々を見守っています。
柴田神社 18
勝家公に関わる人物の筆頭格として、
この人の名も上げておかなければならないでしょう!

「天下の英傑」・織田信長の実妹にして、
勝家公の夫人であった、
お市(おいち)の方

戦国一とも称された美貌
兄譲りの聡明さを兼ね備えた、
才女でもあった彼女。
最初に嫁いだのは北近江の戦国大名・
浅井長政(あざい ながまさ)。

織田家と浅井家で結ばれた同盟の橋渡し役としての
いわゆる政略結婚でしたが、
夫婦間の仲は当時の大名家では珍しく良好で、
この浅井家嫁入り期に長政との間に
「三姉妹」を設けています。

しかし元亀元(1570)年に浅井との約定を違えて
兄・信長が朝倉氏攻めへと乗り出すと、
朝倉氏との関係を重視した夫・長政は
織田家を裏切る決断を下します。
(この際兄の陣中に小豆を詰めて両側を縛った袋を送り、
その危機を伝えたという袋のネズミの逸話は有名)

こうして織田家と敵対関係となった浅井家でしたが
お市の方が離縁されることはなく、
「信長包囲網」の一角となった浅井家中に留まります。
(相当肩身は狭かったことでしょうが)

しかし天正元(1573)年に盟友・朝倉氏が
織田氏に滅ぼされると、
浅井の本拠・小谷城も孤立無援に陥り、
とうとう落城

夫・長政はその父久政(ひさまさ)とともに
落ち行く城で自害を遂げますが、
長政の遺志によってお市の方は生かされ
四兄・織田信包(おだ のぶかね)の庇護の下で
娘たちとともに9年の時を過ごします。

天正10(1582)年に本能寺の変
兄・信長が亡くなると、羽柴秀吉の仲介(意外!)で
柴田勝家公と再婚

25歳差という年の差婚ではありましたが、
元々勝家公がお市の方へ思慕を寄せていた
ことから、夫婦仲は良かったことでしょう。
(だといいなぁ~)

しかしその幸せも長くは続かず、
翌天正11(1583)年に賤ケ岳の戦い
夫・勝家が敗れて北ノ庄城へと退くと、
秀吉軍による攻囲を受けた末に自害

この時はお市の方も夫の後を追い、
ともに自害を遂げました。享年37。
柴田神社 19
娘ともども、否、家族そろって悲劇的な末路を辿った
お市の方。

しかし「戦国一」と称されたその美貌に
あやかりたいという思いは今でも健在なようで、
柴田神社境内にはこんなものも。
柴田神社 20
こちらが「美(モテ)祈願所」の終点。

定められた順路に従い経路を巡った後、
この水に「モテ祈願用紙」を浮かべて
お市の方にお願いする、という手順のよう。
柴田神社 23
「三姉妹神社」のそばに残された、
北ノ庄城石垣の跡。

の西側を固めていたものの根底部分だそう。
柴田神社 18.5
お市の方と殉難将士を弔った、慰霊碑。

北ノ庄城落城から438年。
戦国の定めに抗い、ここで斃れた人たちの、
安寧を願って。
柴田神社 24
境内を一巡した後は、
隣接する「北ノ庄城址資料館」へ向かいます!

参考:福井市 公式ホームページ
    福井県神社庁
    日本伝承大鑑
    刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館 刀剣ワールド
    戦国武将列伝Ω
    Wikipedia

「越前旅」編
1日目
第1回 第2回 第3回 第4回
2日目
第5回 第6回 第7回 第8回
3日目
第9回 第10回 第11回
4日目
第12回 第13回 第14回 
第15回 第16回
第17回 ~福井nigt その1~

柴田公園(柴田神社・北ノ庄城址)

開館時間
見学自由

休館日
なし

アクセス

北陸自動車道福井ICから 約15分

公共交通機関
JRえちぜん鉄道福井駅から 徒歩5分

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。