fc2ブログ

記事一覧

越前旅20 ~幕末福井の傑物たち~

黒船来航をきっかけに混迷が訪れ、
さまざまな思想が勃興し、
数多の争乱の末に二百数十年続いた幕府の打倒と
新政権の樹立へと至った、幕末の世

そんな混沌の時代に「四賢侯」の一人に挙げられ、
藩政改革を成し遂げた後、
幕政にまで重きをなすこととなった名君・
松平慶永(まつだいら よしなが。春嶽)の下で
さまざまな人材が生まれ集い、

やがて明治新政への潮流を生み出すこととなった、
「雄藩」の一つ・越前福井藩

今回はそんな時代をときめいた人物たちの足跡を
辿るため、
市街地南西に広がる標高110mほどの低山・
足羽山(あすわやま)を目指しながら、
彼らゆかりの地を歩きます。
(あまりにも有名なあの人物との、
意外な関りも・・・!)
柴田神社 6
戦国時代、織田信長の統一事業
大きな貢献を果たしながら、
主君亡き後の勢力争いに敗れた悲運の名将・
柴田勝家(しばた かついえ)の夢の跡、
北ノ庄城址(柴田公園)を巡った私。

お次は福井市民の「憩いの場」・足羽山を目指し、
移動開始。
足羽山 1
歩き出して間もなく、市街地中心部を流れる河川・
足羽川(あすわがわ)のほとりへとやって来ました。

穏やかな河道を渡る橋は、幸橋(さいわいばし)
福井駅や福井城、県庁や市役所といった
主要施設が揃う市街地中心部と、
南西の足羽山・足羽地区とを結ぶ
交通路の一つ。
足羽山 1.5
江戸時代、福井城防衛の一端を担う
天然の堀であるとともに、
中級武士たちの居住地であった毛矢(毛屋)地区との
境界線としての役割も持っていた、
足羽川

しかしながら城郭中心部と毛屋地区との間には
架橋が許されず
「毛矢侍」と称された中級武士たちが
城へ出仕するためには、
舟に乗って両岸に渡した綱を手繰る
繰舟(くりぶね)という移動手段が使われていました。

この慣習は福井藩領の減少で居住地が廃れ、
その後に廃止された越前松岡藩
(現在の吉田郡永平寺町付近)から
藩士たちが移住して来た後も続けらていましたが、

文久2(1862)年に「毛矢侍」出身の
三岡八郎(みつおか はちろう。のちの由利公正)が
藩の要職に抜擢されると、
木造常設橋を架けることを提案。
(住人の一人として、その不便さが
身に染みていたのでしょう)

これが容れられて念願の架橋が叶った
毛屋地区の人々はこれを大いに喜び、
この橋に幸橋の名を付けました。

明治維新後は市街地の拡大や交通量の増大、
自動車の普及などともに橋の大型化が進められ、
大正8(1919)年の道路法改正に伴う国道化の後も
昭和5(1930)年には市街地中心部ではいち早く
鉄筋コンクリートを実施。

同8(1933)年には現在の福井鉄道福武線
延伸に伴い電車軌道が敷設され、
戦後の49(1974)年には拡幅工事
なされました。
足羽山 2
現在の幸橋は足羽川の河川改修
橋梁そのものの老朽化、交通量の増大を受けて
平成21(2013)年に架け替えられたもの。

常設化から159年が過ぎた今でも
足羽川を横断する主要路としての役割を
担っており、
福井市中心部と越前市を結ぶ
福井県道28号線

同じく市街地中心部と越前市の
越前武生(えちぜんたけふ)駅を結ぶ鉄道路線・
福井鉄道福武線(ふくぶせん)が通行。
足羽山 3
多量の交通量を誇る自動車の他、
福井鉄道の車両や、
同社と相互直通運転を実施している第三セクター・
えちぜん鉄道が保有する
超低床車両・L形ki-bo(キーボ)といった
鉄道車両(路面電車)が忙しく行き交っています。
足羽山 4
「幸橋」から眺めた、足羽川

足羽川は全長約62km、
九頭竜川水系(くずりゅうがわすいけい)の
一端をなす一級河川

福井・岐阜県境に広がる冠山
(かんむりやま。標高1,257メートル)付近を水源として、
越前中央山地曲流したのち
福井平野へと流入し、
扇状地を成しながら同じ九頭竜川水系
日野川へと合流します。

河川としては決して長大とは言えないながらも
その役割は大きく、
同じ水系に属する日野川九頭竜川とともに
肥沃な大地と都市形成に適した福井平野
生み出している他、

中流域は発電地帯として明治中期以降
水力発電にも利用されたという歴史を
有しています。
(現在でも足羽川の支流となる部子川(へこがわ)
流域での、ダム建設が計画されているそう)

また背後に聳える足羽山
織りなす自然の情景は美しく、
には堤防一面にが咲き誇る、
桜の名所としても
知られているのだとか。
足羽山 
桜並木の向こうには、
これから向かう足羽山も見えています。
足羽山 7
「幸橋」を渡り切った後は、右手側にご注目!

こちらの石碑は、このあたりに
幕末福井藩政のキーマンとなった、
由利公正(ゆり きみまさ/こうせい)の
邸宅が在ったことを示すもの。

福井藩士時代は三岡八郎を名乗って
藩財政の立て直しに尽力し、
主君・松平春嶽(まつだいら しゅんがく/慶永)が
幕府政治総裁職に就任した際には
側用人として藩政・幕政両面から
゛名君″を支えた公正。

新政権樹立の折にも
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)の原案となる
議事之体大意を起草する等
存在感を発揮し、

新政府成立後にはその初代財政担当に任命されて
動乱の時代を生き抜きました。

明治時代に行われた足羽川河川改修によって
その旧跡は失われてしまっているものの、
この地には確かに、
「幕末の能臣」の息吹が残されています。
足羽山 8
「由利公正宅跡」碑の隣に建てられているのは、
幕末史上屈指の人気を誇る「土佐の龍」・
坂本龍馬(さかもと りょうま)の歌碑

実は邸宅の主であった由利公正は龍馬と親交深く
西郷隆盛(さいごう たかもり)と並ぶ
天下の人物として
その名を挙げられていたり、

京都・近江屋(おうみや)で暗殺される
五日前に書かれた龍馬最後の手紙にも
八郎の名が散見されるなど、
その人物と才気が高く評価されていたことが
分かります。

近江屋事件から4年を遡った文久3(1863)年5月、
神戸海軍塾(幕臣・勝海舟(かつ かいしゅう)が
脱藩浪人らを集めて設立した私的な塾)運営のための
資金調達に福井の地を訪れていた龍馬は、

夜半にも関わらず
小舟に棹をさし、
横井小楠(よこい しょうなん)を伴って由利邸を訪問。

福井藩の藩を挙げての上洛の計画や
国政について(いわゆる「ニッポン洗濯」)
大いに語り合い、
意気投合したという逸話が残されています。

この際龍馬が詠んだとされているのが、

君がため 捨つる命は惜しまねど

心にかかる 国の行く末


という短歌。
すなわち「君(=公正?)のために命を捨てることも惜しまないが、
国の行く末が気にかかるなぁ」
といったところでしょうか。

いかに龍馬が公正の人物に惹かれたかを
示すとともに、
国のために身命を投げ打つこともためらわなかった、
彼の人となりを表す歌のように思えます。
足羽山 9
「由利公正邸跡」の碑から道路(&線路)を挟んで反対側、
足羽川の水流から街を守る
堤防上には・・・
足羽山 10
明日を見据えるかのようにしかと目を見開いた、
由利公正像が建てられています。
足羽山 11
次なる「寄り道スポット」を目指し、住宅地の中へ。

電信柱には、町の成り立ちを表す「毛矢」の名が。
(゛毛矢の名は。″・・・なんちて 笑)
足羽山 12
寄り道スポット2ヶ所目は、
住宅地のただ中に広がる公園施設・
左内公園(さないこうえん)
足羽山 13
一見アジサイ咲き誇り
足羽山 14
子ども用の遊具が置かれた何の変哲もない
公園のようにも思えますが・・・
足羽山 15
ここを「特別な場所」たらしめているのが、
こちらの人物。
足羽山 16
この人は橋本左内(はしもと さない)といって、
由利公正同様松平春嶽公に仕えていた
幕末の福井藩士。

福井城北西、常磐(ときわ)町(現在の春山2丁目付近)の
藩医(福井藩お抱えの医者)の家で生まれた
左内先生。

12歳で福井藩の医学の学校・
済生館(さいせいかん)に入って
漢方医学を学ぶと、

16歳で蘭学医(オランダ医学を習得した医者)・
緒方洪庵(おがた こうあん)が
大坂で開いた学習塾・適塾(てきじゅく)に
入り、「医者の卵」として
蘭学や西洋医学の学習に励みます。

嘉永5(1852)年、父・橋本長綱が亡くなると
19歳で後を継いで藩医となり、
江戸幕府が外圧に屈して日米和親条約を結んだ
安政元(1854)年には江戸へ出て、
医学に止まらない西洋学問を幅広く吸収。

翌安政2(1855)年には医者出身としては異例の
書院番(しょいんばん。藩主の近くにつかえ、
警護をする役)に抜擢されると、
2年後の安政4(1857)年には江戸へ呼び出されて
藩主・松平慶永(春嶽)の相談役となるなど、
若くして藩政に於ける大役を担うこととなりました。

また安政3(1856)年には福井藩校・
明道館(めいどうかん)の教師となり、
翌年には教頭に当たる
学監同様心得(がっかんどうようこころえ)に
就任するなど、
欧米の学問を取り入れての学問改革にも注力。

そんな中で江戸幕府13代将軍・
徳川家定(とくがわ いえさだ)の後継の座を巡って
将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)が発生すると、

一橋徳川家当主・一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ。
のちの15代将軍・徳川慶喜)を次期将軍として推す、
いわゆる「一橋派」の一員である
藩主・慶永の命を受けて江戸や京都で
政治活動に尽力。

しかし紀州藩主・徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推す
井伊直弼(いい なおすけ)が大老に就任して
慶福が徳川家茂(とくがわ いえもち)として
14代将軍の座に収まると、

井伊大老は「将軍継嗣問題」や「日米修好通商条約」
調印を巡って対立していた武家や公家、
町人などを刑罰に処する、
いわゆる安政の大獄を断行。

主命により精力的なロビー活動を行っていた
左内先生もまた幕命により捕らえられ、
謹慎処分が科されてしまいます。

この際当時の武士の心意気とされていた
「藩主をかばう」のではなく
「藩主の命で活動していた」と主張したことが咎められ、
刑罰が死罪へと変更。
26歳の若さで、刀の露と消えました。
(元々「医者」として藩主に仕える身となった左内先生。
その「武士観」は、一般的なソレとは
異なっていたのかも知れません)

で、何故ここに左内先生の像があるか、
そして何故ここが「左内公園」と命名されているかと
言いますと・・・
足羽山 17
ここが橋本家の墓所となっているため。

元々この場所は橋本家の菩提寺である
日蓮宗の寺院・善慶寺(ぜんけいじ)の
境内であったのですが、
明治以降に施行された都市計画によって
その境域が縮小。
(お寺自体はお隣の区画で存続)

結果、隣接地にポツンとお墓だけが
残される形となりました。

垣根の向こう、中央に佇む墓碑が
左内先生のもので、
その両隣には橋本家の家祖・長徳、
左内の父・長綱、母・梅尾の墓が
寄り添うように建てられています。
足羽山 18
墓前に建てられているのは、
啓発録(けいはつろく)の碑。

「啓発録」とは嘉永元(1848)年、15歳の時に
左内先生が自身の暮らしを省みて、
自らを励まし、「啓発」とするために
書き残した五つの訓(くん)。

一.稚心(ちしん)を去(さ)る
遊びに興じ、親に甘える子供ごころを捨て去り
研鑽に励むべし。

二.気を振(ふる)う
人に負けず、悔しさを知る心を常に持ち、
士気を奮って研鑽すべし。

三.志を立てる
己の向かうべき道を定め、
そのに向かって精進すべし

四.学に勉(つと)める
優れた人物に学び、それに倣うこと。
また志成る時まで勉学に励むこと。

五.交友を択(えら)ぶ
交わる友人を選び、大切にすること

上記はあくまで(諸々の情報も踏まえた上での)
私なりの解釈であり
どのように捉え、受け取るかは
人によりけりのようですが、

一つ言えることはこれを弱冠十五歳で記し、
自らの生きる上での指針とした
少年・橋本左内のスゴさ

大人顔負けの決意と気概が込められた
五つの訓には、
飛びぬけた才気を発し、混迷の時代を
閃光のように駆け抜けた、
橋本左内という人の生き様すべて
込められているように思えます。

(左内先生が「安政の大獄」を生き抜いた場合、
その後の政局にどのような影響を与えたか・・・
「生存if」のようなものも見てみたい!)
足羽山 19
実はここ「左内公園」、
左内先生の他にもう一人
史上に名を残す人物との関りがあります。

その人物とは、「蕉風(しょうふう)」と称される
芸術性に富んだ句風を確立し、
諸国を巡って「おくのほそ道」に代表される
紀行文を著した偉大な俳人、
「俳聖」こと松尾芭蕉(まつお ばしょう)翁。

元禄2(1689)年3月に曾良(そら。芭蕉の弟子)を連れて
江戸を発ち、
「おくのほそ道」の旅路に出た芭蕉。

ぐるっと奥州(東北地方)を巡った二人は
越後(新潟県)・越中(富山県)・加賀(石川県南部)を抜けて
8月10日に越前入り。

松岡(松岡藩領。現・永平寺町)で一泊した後、
翌11日に福井の城下町に到着しました。

そこで立ち寄ったのが、
蕉門の弟子の一人であった洞哉
(とうさい。等哉、等裁とも)なる人物の庵。
足羽山 20
この「洞哉」という人については
ほとんど記録も残されておらず、
詳細不明の実に謎めいた人物ながら、
左内町に彼の結んだ庵が在ったこと、
そこに芭蕉(とおそらく曾良も)が二晩泊まったことは
確かな様子。

その暮らしぶりは実に貧しいものであったようで、
芭蕉の没後100年に当たる寛政4(1792)年に
福井の俳人たちによって法会(ほうえ)が営まれた際、

「芭蕉が訪れた時も枕がなく、
近くの寺院に在ったお堂で頃合いの木片をもらい、
芭蕉の枕とした」というエピソードが
語られるほど。

ともあれその慎ましい暮らしぶりは
芭蕉の目には好意的に映ったようで、
二晩過ごしたことからも、
この庵を、そして洞哉自身を
気に入っていたことが窺えます。

(年齢の割に驚異的な健脚ぶりを誇り、
「忍者説」も存在する芭蕉。

謎めいた人物像から、洞哉もあるいは
「親藩大名」として大きな影響力を保持する
越前松平家を監視するための
「隠密(おんみつ。いわゆる゛スパイ″)」という使命を
帯びていたのかも?)
足羽山 2-1
幕末福井の人々の足跡に触れた後は、
いよいよ足羽山へと上ります!

参考:福井市立郷土歴史博物館 公式ホームページ
    歴史ハック 教科書とは違った歴史を読み解くメディア
    てつログ 会計士がつづる日々の考察
    はじめての三国志
    Wikipedia

「越前旅」編
1日目
第1回 第2回 第3回 第4回
2日目
第5回 第6回 第7回 第8回
3日目
第9回 第10回 第11回
4日目
第12回 第13回 第14回 
第15回 第16回 第17回
5日目
第18回
第19回 ~北ノ庄城址資料館~(9/19投稿)

左内公園

アクセス

北陸自動車道福井ICから 約15分

公共交通機関
JR福井駅から 徒歩約15分
京福バス70系統 運動公園線 
毛矢町バス停
下車 徒歩約4分
同72・74系統 清水グリーンライン
左内公園口バス停下車 徒歩約1分
福井鉄道足羽山公園口駅から 徒歩約3分

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。