越前旅23 ~足羽山公園・三段広場
- 2021/09/25
- 18:55

「足羽山ATARASHIYA(あたらしや)」での
ランチタイムを終え、再び歩き出した私。
しばらく「あじさいの道通り」を進んで行くと、
左手に広~い階段が見えて来ました!
ここからこの坂を登り、
この日の最終目的地を目指します!

登り道の途中で現れる隆起。
一見ただの階段の踊り場のようにも見えますが、
実はコレ、五世紀頃に造られた古墳
名前・・・は説明板がスレてしまっているため
判然とせず(笑 「茶臼山」の別名は辛うじて読めた)。
江戸時代の初期、文化2(1805)年に
一度発見され、男女の遺体と
副葬品が確認されたものの、
後難・・・すなわち埋葬者の祟りを恐れて
埋め戻されてしまいます。
調査後墳丘上には地蔵堂が建立され、
江戸時代~昭和初期にかけて
丁重に供養されていましたが、
戦時中の福井空襲によって焼失。
戦後に改めて発掘調査が行われ、
遺体を納めていた石棺の状態や
共に入れられていた遺物等から
おおよその築造時期が判明したのだそう。
この他にも足羽山内には
同時期に築造された大小さまざまな古墳が
点在しているそうで、
それらを総称して足羽山古墳群とも
呼ばれています。
(今は見ての通り階段の土台とされ、
思いっ切り踏まれてしまっていますが、
(霊的な意味で)大丈夫なのでしょうか・・・ 汗)

そんな私の心配をよそに、アジサイは咲き誇る。
・・・ああ、キレイだ。

そんなこんなで、階段(や古墳)を踏み越え、
目指す三段広場へとやって来ました。

ここ三段広場は、足羽山北東部における
主要スポットのひとつ。
頂部に「継体天皇像」を戴き、
三段に造成された小丘上に築かれた
三段広場を中心に、
「歴史スポット」ともなっている池・
天魔(てんま)ヶ池の他、
石碑や説明板で福井や足羽山の歴史を知ることの出来る
歴史の広場、
ジオラマや標本などの展示、
クイズなどから福井の自然を知ることの出来る
福井自然史博物館など、
歴史的・文化的施設が充実。
また子供たちが遊べるアスレチック遊具や
イベントにも利用可能な多目的芝生広場、
散策の合間に重宝する休憩所など、
多様な楽しみ方の出来る環境づくりがなされています。

「三段広場」を中心として多様な草花が
植えられているのも、ここの特徴。
6月半ばの訪問日でも・・・

手裏剣状の総苞片(そうほうへん。
花の付け根に生成される葉の一種。
ハナミズキ同様、真ん中に突き出ているのが
゛花弁″となります)が特徴的な、
ヤマボウシ

あたり一面を濃ピンクに染め上げる
サツキなどが、
訪れる人の目を楽しませてくれます♪

先にも述べた通り、
「歴史の舞台」ともなっている足羽山。
「三段広場」直下で水を湛える
天魔ヶ池のほとりは・・・

天正11(1583)年の北ノ庄城の戦いの際、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が本陣を置いたと
伝わる場所。
地の利を得られ、
籠城軍の動きを監視しやすい高所に陣取るのは、
城攻めの基本。
秀吉も城を見下ろすこの場所から、
勝家公の最期と城が焼け落ちる様を
目にしたのでしょうか・・・

こちらは「おくのほそ道」の途上で福井に立ち寄った、
「俳聖」・松尾芭蕉(まつお ばしょう)の句碑。
「名月や 北国日和(ほっこくびより)
定めなき」とあります。

芭蕉句碑の周りには、色鮮やかなアジサイたち。

広場中央に鎮座し、サツキで彩られた「三段広場」。
こんもりと隆起した小丘のように見えますが、
実はコレ、四世紀頃に築造された古墳
山頂古墳と呼ばれており、
直径60m、高さ10mほど。
明治時代の公園整備の際に大きく削り取られてしまい
本来の形を留めていないものの、
円墳としては県内最大級の
規模を誇ります。
古墳内部からは図形の刻まれた石棺や
三角縁神獣鏡(縁の断面が三角形となっており、
神像や獣形などを半肉彫りで表現した鏡)が二面出土。
近年の発掘調査では埴輪が
置かれていたことが判明しており、
その重要性が高く評価されているそう。
(山中に点在する古墳群と比べると
造りや規模が突出していることから、
このあたりに勢力を成していた
豪族の墳墓として造られたのかも知れません)

「三段広場」への登り道。
名前の通り一段目、二段目、
階段を登り切った先の三段目と分かれており、
古墳らしい構造が見て取れます。

階段を登り切った先、サツキの向こうから、
なにやらコチラを見つめる人物を発見。
まるで「関帝(三国志トップクラスの強さを誇る武神・関羽)」のような
立派な髭を蓄え、
(

皇統26代天皇として数々の逸話を持ち、
足羽神社の祭神として崇め敬われている
古代の偉人・継体天皇(けいたいてんのう)の像。
皇統15代・応神天皇(おうじんてんのう)の
孫に当たる(本当だろうか?)皇子・
男大迹王(おおとのみこ)として、
近江(滋賀県)の豪族・彦主人王(ひこうしおう)と
越前の豪族の娘・振姫(ふりひめ)の間に
生まれた継体天皇。
幼い頃に父・彦主人王が亡くなると
母・振姫の故郷である越前・高向
(たかむく。現在の坂井市丸岡町南部)へと移住。
長じて地域を治める゛王″となると、
当時は貧しかった越前国土の開発に着手。
現在福井平野を形成している三大河川、
九頭竜・足羽・日野川を開削
(・・・というのは誇張表現でしょうから、
河川改修などを行ったのが実際のところでしょうか)し、
三国(現在の坂井市三国町)に水門(みなと)を
開くことで、福井平野を開発。
豊かな平野を拓くとともに
舟運の整備にも成功します。
その他道路の開通や集落の形成、
稲作や養蚕、製紙、さらに笏谷石の採掘など
産業の育成にも注力し、
次期天皇として越前を去るまで、
越前国土を開いた偉大な統治者として
人々の敬愛を集めることとなりました。

継体天皇像は明治17(1884)年、
内山基四郎ら石工たちが
継体帝の偉業を顕彰するために建立。
石材には全て笏谷石
(奇しくも゛越前開闢(かいびゃく)伝説″に関わる石材である)が
使用され、像高は4mに達します。
昭和23(1948)年の福井地震では
この像も倒壊の憂き目を見てしまいましたが、
その後再建され、
現在に至るまで三段広場のシンボルとして
福井市民に親しまれています。

「継体天皇像」の台座付近からは、
木立越しに福井市街地がチラ見え。
「開闢伝説」に関わる足羽川の流れも
望むことが出来ます!
気になる゛視線の先″ですが、
これまた継体帝によって開かれた
県北部の港町・三国港(みくにこう)を
向いているのだとか。
像を建てた人々の、継体帝に対する尊敬と
敬愛の想いを感じます。

この日の散策は、ここまで!
「三段広場」を後にして石段を下り

足羽神社の前を通り抜け

山の東麓へと繋がる百坂から、
雑踏の中へと戻ります。

この日の晩ごはんは、
福井駅近くのお蕎麦屋さん、福そばへ!
創業は昭和24(1949)年。
現在の三代目(J・・・)店主は東京の大学を卒業後、
お寿司屋さん、トンカツ屋さん、ファミレスなど
いろんな料理店(蕎麦屋ではない)で働き、
さらに引っ越しや空港での航空機の洗浄など
料理と関係のない業種まで経験した、
異色の経歴の持ち主。
そのため昔ながらの「越前そば」の味を守るだけでなく、
「伝統」に捉われない独自性の高いメニューや、
年二回開かれる寄席(よせ。店主の趣味だそう)など
独特なサービスも魅力なのだとか。
落ち着いたお店の佇まいにマッチした
立派な看板は、
あの伊勢(三重県北中部)名物・
赤福の看板と同じ製作者によって、
金沢の金箔を用いて作られた
特注品だそう。

そんな「伝統と進取」のお店で頂くのはコチラ、
おろしそば&焼鯖寿司セット
お値段1,000円。
おろしそばと焼鯖寿司という「越前名物」二点を
いっぺんに頂けるという、お得なセットメニュー!

メインとなるおろしそばは
敦賀で頂いたすずやの歯ごたえある麺とは異なる、
柔らかな食感。
ふくよかな香り漂うソレを大根おろしの浮かぶ
めんつゆに潜らせれば、
風味まろやか、それでいて
ピリッとした辛味も追加され、
変化のある「麺食」が楽しめます♪

もう一つの福井名物・焼鯖寿司(やきさばずし)
福井県北部の港町・坂井市三国町(みくにちょう)にて
焼き肉店経営や海産物・ジビエの販売を行う
越前三國湊屋(えちぜんみくにみなとや)の、
「三国町の名物を作りたい」という思いから、
平成12(2000)年に誕生(意外と新しい・・・)。
古くは「鯖街道」を通じて朝廷に献上されていた
「越前グルメの代表格」であるサバを
じっくり焼き上げた一品は、
肉厚でありながら、脂っこさを感じさせない仕上がり。
上品な味わいと程よい焼き加減が、
なんだかクセになりそう。
「越前の味」、頂きました♪
参考:足羽山へ行こう 足羽山と周辺エリアのポータルサイト
みんなの趣味の園芸 NHK出版
福井市商店街連合会
越前三國湊屋
コトバンク
前回記事
越前旅22 ~「新しい老舗」・足羽山ATARASHIYA~
継体天皇像
アクセス
車
北陸自動車道福井ICから 約15分
JR福井駅から タクシーで約8分
公共交通機関
JR福井駅から 徒歩約30分
京福バス清水グリーンライン
左内公園口バス停下車 徒歩約11分
運動公園線、西田中・宿堂線
毛屋町バス停下車 徒歩約15分
福井鉄道福武線 足羽山公園口駅下車
徒歩約16分
福そば
営業時間
11:00~21:00L.O
定休日
毎週水曜日
ご予約・お問い合わせ
福井市中央1-22-1
TEL
0776-22-4640
アクセス
JR福井駅西口から 徒歩約5分