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越前旅25 ~一乗谷を歩く~

一乗谷 0.5
一乗谷朝倉氏遺跡

福井市街の南東約10km、
山間の幅500m、南北3kmほどの狭隘な谷・
一乗谷に広がる中世の町の跡。

戦国時代、100年あまりにわたって越前を支配した
戦国大名・朝倉氏の本拠地として築かれ、
谷の下流側入口とその上流1.7kmほどのところに
「下城戸」、「上城戸」(オーキド)と呼ばれる
二カ所の城戸を設けることで町の内外を区分。

また周囲の丘陵上に
城(一乗谷城)や櫓を配置することで、
谷全体を一種のとなし、
外敵に備える工夫がなされていました。

こうして自然の地形を巧みに利用して築かれた町には
朝倉氏当主や一族の居館、
家臣団の屋敷、寺院、職人や商人が居住した
町家などを規則的に配置することで、
計画的な町造りを実現。

そうして築かれた町に
京(京都)や南都(奈良)から下向した
貴族や僧侶らが住まうことで
上方(京阪・奈良地域)の発達した文化が伝えられ、
一乗谷は北陸の小京都
呼ばれるほどに発展を遂げることとなりました。

しかし天正元(1573)年、
北近江(滋賀県北部)の領主・浅井氏の救援に出向いた
当主・朝倉義景(あさくら よしかげ)率いる軍勢が
刀根坂(とねざか)の戦いで織田信長に敗れると、
余勢を駆った織田軍が一気に越前まで侵攻

ここ一乗谷にも逃亡した義景公を追撃する
織田の軍勢がなだれ込み、
町に対して焼き討ちを実行。
朝倉氏五代の栄華を表した「小京都」は、
残らず灰燼に帰してしまいました。

以来400年、「朝倉の都」の記憶とともに
土中に埋もれてしまっていた一乗谷の町ですが、
昭和42(1967)年に山上の一乗谷城を含む
278haの範囲が国の特別史跡に指定されるとともに、
本格的な発掘調査もスタート。

朝倉氏当主が居住した「朝倉館」や
町家といった遺構に加えて、
越前焼や大陸から輸入された陶磁器、
将棋の駒や下駄、くしなど大量の出土品
発掘され、一部の出土品は
重要文化財にも指定。

また谷間に広がる遺跡に加えて
当主館や朝倉氏一族の館、寺院などに設けられていた
諏訪館跡庭園」、「湯殿跡(ゆどのあと)庭園」、
義景館跡庭園」、「南陽寺(なんようじ)跡庭園」の
4つの庭園が国の特別名勝に指定されるなど、

中世の大名や武士の暮らしぶりを知る上で、
大変貴重な史跡となっています。
(中世の町の痕跡がそのまま残されているのも、
スゴい!)
一乗谷 19
そんな「歴史ロマン」がたっぷり詰まった史跡を歩く、
「一乗谷巡り」。

町の下流側出口・「下城戸」を抜けて
しばらく進むと・・・
一乗谷 2-1
行く先から建物跡が現れました!
一乗谷 2-3
石列によって区画された範囲内に残る、
町家の跡。
中心には生活に欠かせない「」を
汲み上げるための、
井戸の存在も確認出来ます!

ここにかつて人が暮らしていたという、
紛れもない証拠。
一乗谷 2-4
「下城戸」に近い下流側の街区は
瓢町(ふくべまち)地区と呼ばれ、

数珠師や金属製の道具を作る鋳物師(いものし)、
木材の加工品を生み出していた
檜物師(ひものし)、
「武士の魂」である刀を磨き上げる
刀研ぎ師といった職人たちの、
工房兼居住区とされていました。
一乗谷 2-5
規則正しく整理された家並み。
一乗谷 2-6
一部の住居跡には、
埋め込み式の甕(かめ)のようなものも
確認できます。

染物を生業とした紺屋(こんや)さんが
住んでいたのでしょうか?
一乗谷 2-10
生活用具の製造に用いていたと見られる、
の跡。

瓢町地区の住居跡からは作りかけのかわらけ
(素焼きの土器)や
2連式の竈(かまど)跡も確認されており、
「モノづくり」と結び付いた生活が送られていたことが
分かります。
一乗谷 2-9
瓢町地区の眺め。
家並みの跡が遠くまで続いてます。
一乗谷 2-7
こちらは寺院の跡。

地元では「サイゴージ(西郷寺?)」と
言い伝えられていた場所で、
敷地は東西38m、南北30mほど。

正面の門を潜った先、
アスファルトで固められた部分に本堂が置かれ、
その左側(西側)に僧侶が起居した
庫裏(くり)が接続していました。
一乗谷 2-23
寺院跡の推定復元図。

本尊が据えられ、仏事が執り行われた本堂、
生活空間となっていた庫裏を中心に、
中庭前庭などが配置されています。

右側二棟については用途は説明されていませんが、
形と大きさからすると
馬を繋ぐための(うまや。もしくは厨房?)と
来客をもてなすための客殿
あたりでしょうか?
一乗谷 2-8
寺院東側の様子。

画面手前が客殿(らしき建物)、
その奥の細長い建物が厩(?)。

発掘調査では建物遺構に加えて
多量の石仏、塔婆(とば。供養のため墓に立てる
塔形をした細長い平板)などが出土しており、
「寺」の伝承を裏付けることとなりました。

一乗谷にはこの「サイゴージ」の他にも
多くの寺院が点在しており、
それと合わせて住人を葬った
墓地の存在も確認されています。

なお遺構に付いては保存の観点から
その大部分が埋め戻され
上からアスファルトで覆うという措置が
取られています。
一乗谷 2-12
幅の広い通りに面して続く街区。

瓢町地区からこの先の「雲正寺地区」に掛けての街区は
平面復原地区と呼ばれ、
敷地を区切っていた溝や土塁、
住居、寺院などの痕跡を
平面的に再現することで

かつての町割りや町の広がりが
想像出来るような復原方法が
取られています。
一乗谷 2-11
溝で取り囲まれ、石積で固められた
屋敷の跡。

中央に建物を建てるスペースを広く取り、
や竈(かまど。もしくは井戸?)、
丈夫な造りの門を備えていたことが想像出来ます。

町の中心部に近いこと、
しっかりとした造りから、
朝倉氏に仕えた家臣の住まう
武家屋敷だったのかも知れません。
一乗谷 2-13

一乗谷 2-14
限られたスペースに住居が集中していた
職人たちの居住区と異なり、
どの区画も広い敷地が取られています。
一乗谷 2-15
小川の横に石積が築かれ
独特な景観を生み出しているのは、
雲正寺地区(うんしょうじちく)と呼ばれる街区。

八地谷(やちだに)と呼ばれる
一乗谷で最大の支谷
拓いて造成されており、
谷の奥まで屋敷が建ち並んだ様は
八地千軒(やちせんげん)と称されたという。

川沿いに築かれた石積みの護岸は、
中世の町並みとしては全国でも数少ない
貴重な例なのだとか。
一乗谷 2-16

一乗谷 2-17
先ほどと同様、一軒ごとに広い敷地が取られている
雲正寺地区。

この付近の建物はその多くが
柱を土中に埋めることで築かれた
掘立柱建物であったことが確認されており、
瓢町地区とはこの点でも
一線を画した趣があります。

また墓地跡や五輪塔が出土したことから
寺院が在ったことも分かっており、
「雲正寺」という地名も主要な寺院から
名付けられたものと思われます。
一乗谷 2-18
雲正寺地区の奥、
谷を見下ろすように聳えているのは、
月見山(つきみやま)と呼ばれる小山

町の中央、「下城戸」と「上城戸」のちょうど
中間付近に位置しており、
眼下に朝倉氏館、
その奥に領主の゛″となる
「詰城(つめじろ)」・一乗谷城を望む
非常に重要な立地。

付近には土塁空堀が構築された
痕跡が残されていることから、
周囲を監視し、有事に町を守るための
が建てられていたと思われます。
一乗谷 2-19
現在その立地の良さから展望台
設けられている、月見山

斜面に取り付けられた木製の階段を
上がって行けば・・・
一乗谷 2-21
雲正寺地区や朝倉館跡
一乗谷 2-20
復原町並などの眺めを、チラ見えながら
楽しむことが出来ます♪
一乗谷 2-22
木々の間から覗く、空堀の跡。

町造りだけでなく、防衛線の構築にも
自然の地形が巧みに
利用されていたことが分かります。

もし朝倉氏側が万全の態勢
織田軍を迎え撃つことが出来ていれば・・・
そう思わずにはいられません。
一乗谷 3-1
町の姿を垣間見た後は、
いよいよ歴代当主の住まい・
「朝倉館跡」へと向かいます!

参考:福井市文化遺産ホームページ

一乗谷朝倉氏遺跡 平面復原地区

アクセス

北陸自動車道福井ICから 約10分

公共交通機関
JR一乗谷駅から 徒歩約21分
JR福井駅西口から
京福バス62系統 一乗谷東郷線
朝倉館前バス停
下車 徒歩約1分

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。