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越前旅26 ~当主の住処・朝倉館跡~

朝倉氏
戦国時代、現在の福井市南東、
一乗谷と呼ばれる谷合に築かれた
町を拠点に、勢威を振るった大名家

元は但馬国(たじまのくに。兵庫県北部)・
朝倉庄を本領とし、鎌倉幕府に仕えた
御家人(ごけにん)の家系でしたが、

鎌倉幕府滅亡後の建武元(1334)年、
家祖とされる朝倉広景(あさくら ひろかげ)の代に、
越前守護に任じられた足利一門の有力武将・
斯波高経(しば たかつね)の家臣として
越前へ入国。

広景の子・高景(たかかげ)、その子氏景(うじかげ)は
南北朝の争乱に於いて幕府(北朝)方に付いて
戦功を挙げ、斯波氏重臣として、
また福井地域東南部を治める領主として
地位を築くことに成功します。

(この斯波氏従属時代、ともに越前統治に携わったのが、
のちに朝倉氏を滅ぼすことになる
織田氏(つまり信長の先祖)だったりする。
歴史のイタズラって、おもしろい!)

朝倉氏が戦国大名としてのし上がるのは、
広景公から6代を数えた当主、
朝倉孝景(あさくら たかかげ)公の頃。

それまで越前国主として君臨していた
斯波氏の血筋が途絶え、
一族の大野氏から選ばれた養子・
斯波義敏(しば よしとし)が守護の座に就くと、

孝景公は守護代(守護に代わって実務を取り仕切る代官)・
甲斐氏と組んで主家に反逆

京都での謀略や越前国内での内乱の末に
とうとう義敏を追い落とすことに成功します。

やがて足利将軍家の後継車争いに
細川氏と山名氏の対立、
さらに畠山氏の家督争いまで絡んだ大規模な内乱・
応仁の乱が発生すると、
孝景公は守護として擁立していた
斯波義廉(しば よしかど)に従い西軍(山名方)として参戦。

ところが将軍足利義政(あしかが よしまさ)の嫡男・
義尚(よしひさ)を擁する東軍(細川方)からの
働きかけにより、
孝景公は寝返りを決意。

幕府より「守護職は孝景の望みのままとする」
(=事実上孝景公を越前守護と認める)との
お墨付きを得た孝景公は、
西軍に与していた甲斐氏と
かつての主である斯波義敏を攻撃

美濃(岐阜県南部)守護代・斎藤氏の仲介によって
甲斐氏との和睦が成り、彼らが越前を去ると、
ついに越前一国の平定に成功。
ここから5代、103年に及ぶ
朝倉氏の越前統治が始まりました。
(この頃に、本拠地を一乗谷に移したようです)

その後も斯波氏と甲斐氏の反攻
隣国・加賀(石川県南部)で勢力を伸ばした
一向一揆との対決といった戦乱もありながら、
安定した治世を確立。

4代孝景(たかかげ。初代と同名)の頃には
幕府の重臣格にまで取り立てられる等、
朝倉氏は全盛期を迎えることとなりました。

その後を継いで朝倉氏当主となったのが、
5代・義景(よしかげ)公。

16歳で越前国主となった義景公は、
それまでの統治機構を引き継ぐ形で
内政の充実を図る一方、
越前国内や一乗谷で興行を催行する等
文化人としての才覚も発揮。

そんな義景公の下、
越前統治の根拠地である一乗谷には
各地より人やモノが集まり、
上方(京阪奈地域)から先進的な文化がもたらされることで
小京都と呼ばれるほどの発展と隆盛を遂げました。

そうして続くかと思われた「朝倉の天下」でしたが、
京都で暗殺された将軍の弟・
足利義秋(あしかが よしあき。のち「義昭」と改名」)が
越前へ逃れて来たことと、
「あの男」の勢力伸長によって、
やがて戦乱の渦へと巻き込まれて行くことに・・・
一乗谷 3-18
そんな「戦国大名・朝倉氏」の
繁栄と衰退を写す゛鏡″でもある、
中世都市・一乗谷

「櫓跡」と思しき小山・月見山から
遺跡を眺めてから・・・
一乗谷 3-2
一乗谷川に架かる木造橋
御屋形橋(おやかたばし)へ。

名前の由来となった御屋形(もしくは御館)は、
公家や武家などの貴人が居住した館を指す言葉。
転じて中世武家では主君に対する敬称として、
御屋形様(おやかたさま)といった
使い方がなされていました。

一乗谷の、そして越前の主であった義景公も、
家臣からは「御屋形様」と呼ばれていたそう。

この御屋形橋を越えた先で待っているのが・・・
一乗谷 3-1
朝倉氏の当主が住まいとしていた、
朝倉館(あさくらやかた)の跡。
一乗谷 3-4
「朝倉館」は三方を水堀土塁に囲まれ、
その広さは6,425㎡
背後に聳える山の一部とそこに設けられた
庭園まで含めると、
約19,000㎡にも達する広大な敷地を誇ります。

土塁内には当主の住まいである主殿
家臣との面会や客人の歓待に使われたであろう
会所(かいしょ)など十数棟の建造物が建てられ、
武家の住まいとしては珍しい花壇
小規模な庭園も設えられていました。

永禄11(1568)年、のちに室町幕府15代将軍となる
足利義秋(昭)(あしかが よしあき)が
義景公を頼って越前へ下向してきた折には、
ここで盛大な宴が催されたことが
記録として残されています。
一乗谷 3-3
「朝倉館」復元模型。

主だった建物は敷地の北側に集中しており、
その中央付近に「主殿」と「会所」が
設けられています。

敷地内には大小二つの(うまや)、
射朶(しゃだ。弓道の的を置くための盛り土)
を備えた射場(いば。弓の練習場)など、
武術の鍛錬を行う場も備えられていたことが
分かります。
(射場の前の広場で、義景公が
馬を走らせることもあったかも知れません)

土塁水堀を巡らせた
典型的な中世武家の館の形態を取る
「朝倉館」ですが、
「生活の場」、「政務を行う場」としてだけでなく、

三方に門を構え(おそらく建物に近い北門は
脱出口である「搦手(からめて)」として
使われていたのでしょう)、
要所に隅櫓を配するなど、
万一の合戦も想定した造りとなっていました。
一乗谷 3-5
それでは、「朝倉館」内へと入って参りましょう!

水堀の向こう、館跡の入口に鎮座しているのは、
唐門(からもん)

「朝倉館」の正面入口であった西門跡
建てられた門で、
中央へ向けて緩やかな弧を描く飾り屋根・
唐破風(からはふ)、その中でも装飾が施された
向唐門(むこうからもん)と呼ばれる形式で
造られています。

広大な屋敷跡にポツンと佇むことから、
朝倉氏時代の「生き残り」かと思いそうですが
そうではなく

「朝倉氏最後の当主」となった
義景公の菩提を弔うために「朝倉館」跡に
創建された、
松雲院(しょううんいん)という寺院の
寺門として建てられた門で、

のちに天下人となった豊臣秀吉
(とよとみひでよし)によって寄進されたと
伝えられています。

現在の唐門は江戸時代に再建
されたもので、
造りもそのままに建て直したのでしょう、
朝倉氏の家紋・「三ツ木瓜(みつもっこう)」紋に加え、
豊臣家の家紋として使われた
「五三の桐」紋が刻まれています。
一乗谷 3-6
「唐門」を潜って左手、
東西に長~く伸びている建物跡は、
七間厩(しちけんうまや)の跡。

(うまや)とは戦や移動に用いる馬を繋ぎ、
飼育していた施設。

「朝倉館」跡にはこの七間厩と
「会所」の隣接地に建てられた五間厩
二つの厩が用意されており、

彦根城馬屋と同様領主である
義景公が騎乗するため
良馬の育成・飼育が行われていたと思われます。
(五間厩は「搦手」である北門と
「会所」に隣り合った立地から、
緊急時の脱出用として
つくられたのかも知れません)

施設名の由来はおそらく、
桁行(奥行き)が七間(=およそ12.7m)
あったことから。
一乗谷 3-7
(なぜかここだけ)に覆われているのは、
警護の武士たちが詰めた施設・遠侍
(とおざむらい)の跡。

復元図からすると右手に御殿への
出入り口となる玄関が、
左手奥~の方には館の当主に供する料理が
作られた上台所(かみだいどころ)が、
それぞれ接続していたようです。
一乗谷 3-8
遠侍(および玄関)の右奥に構えられていたのが、
屋敷の中核を成していた建物の一つ・
主殿(しゅでん)の跡。

「主」の字が示す通り館の主人が生活の場とし、
政務を執り行うための場所。

ここで初代孝景公を始めとする歴代当主、
さらに「最後の当主」である義景公が
日々の暮らしを送っていたと思うと、
とっても胸熱
一乗谷 3-9
「主殿」の北隣、一際大きな建物跡は、
「主殿」と並ぶ中心施設・
会所(かいしょ)のもの。

「大広間」のような造りの建物は
家臣たちとの謁見(えっけん)や
客人の接待に使われたと思われ、

永禄11(1568)年にはここと「主殿」にて
足利義秋(昭)(あしかが よしあき)を
招いてのが行われました。

この「会所」と「主殿」、それと廊下で繋がる
「泉殿(いずみどの)」と「小座敷(こざしき)」は
それぞれ中庭に面しており、
そこには日本最古と称される
花壇が設けられていました。
一乗谷 3-10
「会所」の隣に設けられた、もう一つの「台所」。

こちらは御清所(おきよどころ)
と呼ばれる台所で、
貴人(公家や高位の僧侶・武家など)に
料理を提供するのに使われていたそう。

義昭公をもてなす際にも、
ここで料理が作られたと思われます。
(選りすぐりの食材たちが使われたのでしょうね・・・
ジュルリ)
一乗谷 3-11
御殿の最奥、「小座敷」と「泉殿」跡に挟まれた場所には、
庭園が残されています。

規模こそ大きくはないものの、
大小の石材を用い、
を囲むように並べた゛配置の妙″が
お見事。
一乗谷 3-12
「朝倉館」の南奥、
南庭と呼ばれる庭園が在った場所には、
朝倉氏5代にして「最後の当主」となった、
義景公の墓所
建てられています。

天文17(1548)年、
16歳で朝倉氏の家督を相続した義景公。
当時朝倉氏は先代孝景公(2人目)から続く
最盛期のさなかで、

義景公もまた平時の能君として
領内の統治に尽力しながら、
武家の諸文化にも通じる文化人としての
才を発揮していました。

永禄8(1565)年、室町幕府13代将軍・
足利義輝(あしかが よしてる)が
阿波(徳島県)の領主・三好氏によって
殺害されると、
義景公は義輝の弟で奈良・興福寺の
一乗院に入っていた覚慶(かくけい)を保護。

初めは敦賀に、のち対立していた
加賀一向一揆との和睦が成立すると
一乗谷・「上城戸」の北方に在った寺院・
安養院(あんよういん)の一角に御所を建てて
そこに覚慶を迎えて歓待しました。

義景公は三年の間に元服(成人)の儀を執り行うなど
覚慶改め足利義秋(昭)
手厚く保護していましたが、

義景公に上洛の遺志がないと悟った義昭は
美濃(岐阜県)に勢力を拡げていた
織田信長(おだ のぶなが)の下へと
去ってしまいます。

やがて念願の上洛を果たした
義昭と信長でしたが、
元亀元(1570)年になると
朝倉氏への攻撃を開始。

この時は金ヶ崎城址の記事で触れた通り
盟友・浅井氏が織田氏を裏切ったことで難を逃れ、
以後「信長包囲網」に加わった朝倉氏は
浅井氏とともに4年に亘って織田との戦い
(元亀の争乱)を展開。

一時は堅田(滋賀県大津市付近)まで進出して
京を窺う勢いを見せた朝倉勢でしたが、
元亀4(1573)年になると旗色が悪化

織田軍の攻勢に窮する浅井を救援すべく
自ら兵を率いて出兵した義景公でしたが、
対陣の末に小谷城(おだにじょう。浅井氏の本拠)救援が
難しいと見て撤退を決断。

ところが対敵・信長はこれを見逃す男ではなく、
自身が先頭に立って果敢に朝倉軍を追撃

この攻勢に浮足立った朝倉勢は
多数の重臣や一門の武将を討ち取られる
大敗(刀根坂の戦い)を喫し、
一気に敗勢に転じることとなってしまいました。

命からがら一乗谷へと逃げ帰った義景公。
一門衆の筆頭格でいとこに当たる
朝倉景鏡(あさくら かげあきら)の勧めで
大野郡へと退きますが、
そこで景鏡がまさかの裏切り

景鏡の手勢に囲まれた義景公は、
その地で自刃を遂げました。
享年41。
一乗谷 3-13
戦国の定めに抗えず、
最期は一族に裏切られるという
結末を辿った、義景公。

兵火の記憶が遠ざかった今は、
かつての在所であった一乗谷で、
静かに眠りに就いています。
一乗谷 3-14
義景公の墓前に参った後は、
こちらの階段から屋敷の裏手へ。

屋敷を望む高台からは・・・
一乗谷 3-15
御殿の跡を丸ごと見下ろす、絶景が!

在世当時、義景公もこの眺めを目にしていた
のでしょうか・・・
一乗谷 3-16
屋敷裏手のもう一つの見どころは、
特別名勝・
湯殿跡(ゆどのあと)庭園


館の背後に広がる高台上に築かれた、
大名庭園の跡。
一乗谷 3-17
荒々しい石材が並ぶ造りは、
下剋上を成し、戦国乱世に一勢力を打ち立てた
大名家に相応しいもの。

石組みに囲まれた
屋敷の焼亡から448年が過ぎた今では
枯れ果ててしまっていますが、
調査では山際から水を引き込む
導水路(どうすいろ)が
存在していたことが判明しており、

戦国期には一般的な庭園同様
水が張られていたことが確認されています。

四季折々に草木花々が咲き誇り、
それらがに映り込む様は、
さぞ美しかったことでしょう。
(「芸術は爆発だ!」で知られる
故・岡本太郎(おかもと たろう)さんも、
この庭園の眺めに感激して
長時間鑑賞なさっていたとか)

なお「湯殿跡」という名称ですが、
江戸時代以降に付けられた呼称であり、
この付近にどのような施設があったかは
不明だそう。
(てか御殿から離れた高台に、
湯殿(風呂場)なんて造んないでしょ)
一乗谷 3-19
朝倉氏の栄華と衰亡を物語る、
朝倉館跡。

かつての統治の拠点は、
今はただ静かな山間に
息を潜めるように佇んでいます。

参考:特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡
    福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
    公式ホームページ
    コトバンク

前回記事
越前旅25 ~一乗谷を歩く~

朝倉館跡

アクセス

北陸自動車道福井ICから 約10分

公共交通機関
JR一乗谷駅から 徒歩約25分
JR福井駅から
京福バス62系統 一乗谷東郷線
朝倉館前バス停
下車 徒歩約5分

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。