fc2ブログ

記事一覧

県都・岡山を歩く 2~藩政の拠点・岡山城! その2~

師走・12月の恒例行事、
京都・清水寺(きよみずでら)で発表される、
今年の漢字

全国から公募によって集められた
ハガキの中から「最多得票」によって
選ばれたのは、

東京オリンピックが(強行)開催され、
日本代表による金メダルラッシュに沸いた
1年を反映した言葉だそうですが・・・

正直開催へと至るゴタゴタと
お殿さま」の如きIOCや゛主催者″である
政府・東京都の「民意軽視」の姿勢を
まざまざと見せつけられてしまっては、
納得、とは言い難い
(それとも「カネ」、という為政者たちへの
皮肉であろうか?)

ともあれ選ばれた漢字に罪は無い
来年・・・の冬季北京オリンピックは
(ウイグル自治区問題もあって)
どうなるかは分かりませんが、

いずれまた再登板するであろう「」が、
心から歓迎し得るものであることを
願います。


7.31 Saturday
岡山散策 5
さて、一時の間を置いて再びやって参りました
岡山県!

その「県都」である岡山市は、
岡山三大河川に挙げられる旭川・吉井川
(あと一つは倉敷市の高梁川(たかはしがわ)
によって形成された岡山平野
中央部分に位置し、

約790㎢の域内に33万5,132世帯、
約72万人
が居住。

この岡山平野豊かな農産物を、
北部の山地二河川水資源を生み出し、
晴の国(はれのくに)と称されるほどの
温暖にして恵まれた気候が年間を通して続く、
住みやすい風土が形成されています。
(わが「ホームタウン」・倉敷市もイイよ~!)

そんな岡山市域発展のきっかけとなったのが、
戦国時代、西国きっての「謀将」・
宇喜多直家(うきた なおいえ)によって築かれた、
岡山城

直家、その跡を継いだ秀家(ひでいえ)の
親子二代によって形成された城と城下町は、
関ヶ原の合戦後゛裏切り″の功によって
入封された小早川秀秋(こばやかわ ひであき)、
次いで有力大名の池田氏へと受け継がれ、
城と町の整備が進められました。

明治維新後は市制が施行され、
政治経済はもとより、交通、教育文化、医療など
さまざまな分野をリードする、
岡山県の中心都市へと発展。

太平洋戦争では空襲によって
街のシンボルであった岡山城天守が焼失するなど
多大な被害を受けたものの、

山陽新幹線や瀬戸大橋などの
鉄道・道路網の整備、
周辺市町村との合併などで市域・都市圏を広げ、
平成21(2009)年には政令指定都市
となるなど、山陽有数の都市へと
発展を遂げています。
岡山散策 16
そんな「備の国」の中心を巡る、
県都・岡山を歩く編。

その初回となる前回では、
市街地中心部に残された貴重な建築物に
入居したレトロなカフェを訪れ、
外郭部にわずかに残された、
「城の痕跡」を観察!


前回記事はコチラ
http://ac802tfk.com/blog-entry-451.html


岡山城 1
朝のひととき」を堪能して、移動を開始した私。

路面電車が走る「城下筋」から
住宅街へと分け入ると、
左手に見事な石垣が出現!

見上げる高さと規模、堅牢さ。
間違いなく「備前統治の中枢」・
岡山城のもの。

城の旧図と前回ご紹介した
「西丸西手櫓」との位置関係からすると、
写真の場所は
西の丸の南面に当たるようです。
岡山城 2
見事な石垣に感嘆しながら進んで行くと、
枡形(ますがた)の跡に到達!

ここは二の丸と通称「西の郭」と呼ばれる
(内閣)内郭(ないかく)との間を繋いだ、
石山門という城門の跡。

岡山市の北方、富山城
(とみやまじょう。小早川氏入封の翌年に廃城)の
大手門を移築したものと伝えられ、
奥に見える石垣上に櫓門
構えられた、立派な城門であったそう。

岡山城廃城後も解体を免れ、
天守とともに国宝(旧国宝。重要文化財相当)に
指定されていましたが、

昭和20(1945)年の岡山大空襲によって
焼失
(惜しい・・・実に惜しい・・・)

以降復元はなされず
ご覧のように道路化された枡形だけが
その面影を留めています。
(惜しい・・・)
岡山城 3
石山門跡枡形の石垣には、
空襲によって建物もろとも焼かれた痕跡が、
生々しく残されています。
(安土城を思い出す・・・)
岡山城 4
「石山門跡」を抜けて左手に進んだところにある
旧内山下小学校は、
「西丸西手櫓」を擁した曲輪・
西の丸の跡。

二の丸に隣接し、本丸へと続くルートを押さえる
重要な役割を有した曲輪には、
初めは重臣たちの屋敷が置かれていましたが、
寛文12(1672)年、゛名君″として知られる
池田光政(いけだ みつまさ)公が
西の丸を隠居所に選ぶと、

以降西の丸は歴代藩主の隠居所として
利用されることとなり、
御殿や庭園、花壇等本丸同等の施設が
整えられていったそうです。

明治以降は一貫して学校施設が置かれ、
ほとんどの建築物は解体
(一部が残された御殿も、
昭和初期に取り壊されてしまったそう。
惜しい・・・)

今は「西丸西手櫓」を残すのみとなっています。
岡山城 5
ここから城と登城道の痕跡を残す
「烏城(うじょう)みち」を
岡山城 6
櫓台を眺めながら歩き・・・
岡山城 7
岡山城本丸に到着!

ここで改めまして、岡山城のご紹介。

城の前史は南北朝時代の正平年間(1346~70頃)、
南朝方の功臣・名和氏(なわし)の一族に当たる
上神高直が「石山」と呼ばれる地に城塞(砦?)を
構えたことが始まり。

その後石山には地元の領主・
金光氏(かなみつし)の居館が
置かれていましたが、
戦国時代の元亀元(1570)年、

備前国(びぜんのくに。岡山県東南部)に
勢力を伸ばしていた「謀将」・
宇喜多直家(うきた なおいえ)によって滅亡

金光氏を滅ぼした直家は
ただちに城の改修を指示し、
天正元(1573)年には居城を
石山城へと移行。

以後この城を拠点に備前支配に
注力することとなりました。
岡山城 7.5
この「石山城」を近世城郭・「岡山城」へと
改めたのは、直家の子・
宇喜多秀家(うきた ひでいえ)

羽柴(豊臣)秀吉に取り立てられ、
57万石の太守となった秀家は、
主君・秀吉の指導の下、
大規模な城の改修に着手。

従来城の中心であった「石山城」の本丸を
二の丸に、二の丸を西の丸に改め、
新たに東の小山・岡山に本丸を構築。
(ここから「岡山」の地名が生まれた)

その北端には秀吉が築いた大坂城にならった、
漆黒の下見板張り、
四重六階の天守が築かれ、
のちに「五大老」に抜擢された主君・秀家の
威光を誇示していました。

この秀家の治政下で城下町の拡張・整備も
行われていましたが、
慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが起こると、
西軍の主力として戦った秀家は
改易の上流罪となり、

宇喜多氏二代の治政は終焉の時を
迎えます。
岡山城 20
その後を受けて入封したのが、
天下分け目の合戦」の趨勢を決定づけた
裏切り者″・小早川秀秋
(こばやかわ ひであき。
関ヶ原の合戦後に「秀詮」に改名)

暗君″というイメージを持たれがちな秀秋公ですが、
(半ば強引ながらも)城の拡張に注力。

しかしわずか2年満たずで
急死してしまったため、
小早川家も断絶

その後岡山には、
幼少のため兄・利隆(としたか)の補佐を受けた
池田忠継(いけだ ただつぐ)が入封。

この「利隆」時代とその跡を継いだ
忠雄(ただかつ)の時代に
さらなる整備・拡張が行われ、
岡山城は完成

池田氏統治の下で、
岡山藩は明治維新を迎えることとなりました。
岡山城 9
本丸内への通路となる、
目安橋(めやすばし)

内堀を横断し、本丸南西に構えられた出入口・
内ゲバ内下馬門(うちげばもん)に
通じた橋梁で、光政(みつまさ)公の代、
橋のたもとに領民の意見を募るための
目安箱(めやすばこ)が
置かれていたのが名称の由来。
岡山城 10
在りし日の目安橋周辺。

元々目安橋はご覧のような木橋でしたが
明治時代に撤去され、
現在の土橋(どばし)に改良。

また目安橋の先に在った内下馬門
岡山城最大規模の櫓で
宇喜多直家の旧居城・亀山城(岡山市東区)からの
移築と伝わる大納戸櫓(おおなんどやぐら)、

その右手の鉄門(くろがねもん)なども、
残らず破却されてしまいました。
(仮に残されていても、
戦災を生き延びていたかどうか・・・)
岡山城
では入城!と行きたいところでしたが・・・
訪問前日からまさかの
大改修工事中
(しかも「天主閣」は一足先、6月より
休館していたとか!)

気になる完成予定は、来年11月
(ガーン!)

見ての通り本丸内は一切通行できない状態と
されているようで、
もはや打つ手なし・・・
岡山城 8
仕方がないので、
内堀に沿って旭川方向へ。
岡山城 11
本丸を覆った木立の向こうには、
漆黒天主閣!
岡山城 12
「西丸西手櫓」と並ぶ現存建築の一つ、
重要文化財月見櫓(つきみやぐら)!
岡山城 13
「二の丸」跡に広がる住宅地を抜けた先には、
穏やかな流路を湛えた旭川

市域東部を流れる吉井川
倉敷市の高梁川とともに岡山平野を形成する
岡山三大河川の一つで、
総延長142km、流域面積1,810km。

流域内におよそ33万人が暮らす、
県央地域を代表する大河

もともとは城の北方2kmほどを
流れていましたが、
秀家公の時代、城の大改修時に
守りが手薄な本丸
(西・北・南の三方に城域が広がっている一方、
東側には本丸を護るための曲輪がない)
を護る天然の堀とするため、

城の北方から流路を引き入れ、
本丸東側を通すように
大規模な流路変更が施され、
市街地中心部を流れる現在のルートに
付け替えられました。

(城と合わせて、多数の人と物資が動員された、
大工事であったことでしょう)
岡山城 15
旭川に架かる月見橋は、
岡山城と隣接する「名勝」・
後楽園を繋ぐ橋。
岡山城 16
レトロな造りの橋からは、
旭川の流れと、
優美な天守の姿を望むことが出来ます♪
岡山城 17
可能な限り接近して撮った、
岡山城天守
(逆光ですが 汗)

岡山城天守は、宇喜多秀家公の時代、
慶長2(1597)年の竣工。

4重6階、入母屋造(いりもやづくり)の基部に
楼閣状の上部を重ねた
望楼型(ぼうろうがた)と呼ばれる形式で、

隣に塩蔵(しおぐら)という
籠城に備えた物資を貯蔵するための櫓を備えた、
複合式天守となっています。

外観は姫路城のような白色の目立つ
総塗籠(そうぬりごめ)ではなく、
黒漆を塗った板を外壁下部に張り付ける、
下見板張り(したみいたばり)
(松本城もこの形式)

これは織豊期(しょくほうき)に建てられた天守に共通した
古風な様式(「望楼型」も同様)であり、
烏城(烏城)という別名の
由来ともなっています。
岡山城 20
また東西側と南北側で印象が異なるのも、
岡山城天守の特徴。

これは天守台が日本の城郭唯一
不等辺五角形という非対称な形に
なっているためで、
下層部を天守台に合わせ、
上層を四角形に(無理やり)整えた結果であり、

東西側は前の写真のような細身な、
南北側では上写真のような重厚な見た目に
仕上げられています。
(ただそれが逆に、
独特な佇まいを生み出す要因ともなっています)

岡山城天守は廃城後も解体されずに残され、
街のシンボルとして旧国宝にも
指定されていましたが、
岡山大空襲の際に焼失(😢)

戦後の昭和35(1960)年、
旧藩士(!)を中心に「岡山城再建期成同盟会」が
結成され、
その後岡山市主導の下集められた
融資と寄付金を生かす形で、

昭和41(1966)年に復元天守が竣工
コンクリート造の外観復元ながら、
烏城」として親しまれた街のランドマークは
見事に復活を果たしました。
(現在は修復工事に付き、
一面足場に覆われた状態。
これはこれでレアか?)
岡山城 18
城内二ヶ所のみに残された
貴重な現存建築の一つ・
月見櫓(つきみやぐら)

天守が置かれた「本段」の隣、
御殿が構えられていた表向と呼ばれる
場所に建てられた櫓で、

二重櫓ながら各所に破風(はふ)や
出窓、出窓格子(でまどごうし)が施された
優美な造りとなっています。

御殿の近傍という立地、
あまり実戦的とは言えない造り、
「月見櫓」という名称からすると、

戦時を想定した「戦うための」櫓ではなく、
文字通り城主や奥方などが
月見酒宴を開くための
娯楽施設として機能していたのかも
知れません。
岡山城 19
旭川越しに望む、天守と月見櫓。

藩政時代も、このような眺めが
展開されていたのでしょうか・・・
後楽園 
岡山城への「入城」は
叶いませんでしたが、
せっかくやって来た為政者の「お膝元」!

藩政時代に築かれた、
岡山屈指の名所に立ち寄りましょう!


参考:岡山城 公式ホームページ
    Wikipedia


烏城公園(岡山城本丸跡)

〒 700-0823
岡山市北区丸の内 2-3-1

営業時間
休館中

入館料
休館中

お問い合わせ
TEL 086-225-2096
FAX 086-225-2097

アクセス

山陽自動車道岡山ICより 約20分

公共交通機関
岡山桃太郎空港から
岡山駅までバスで約30分

JR岡山駅から
徒歩約23分
タクシーで8~11分

岡山電気軌道(岡山市電)
「東山行き」に乗って城下駅で下車 
徒歩約10分

岡電バス「岡電高屋行き」
両備バス「東山経由西大寺行き」
県庁前バス停下車 徒歩約10分

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。