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山城と城下町を歩く1 ~備中松山城・登城道~

昨年以降、多忙かつハード工場勤めもあって
常に追いかける状態だった当ブログも、
次の職場で断続的に続く臨時休業
冬休みに突入(Fooo!)したこともあって、
ようやく追いついて参りました!

ここからは「ネタ造り」にも励まなくては
ならなくなりますが、
新種のオミクロン株の流入も加味し、
極力慎重に、おサイフとも相談しながら
動いて参りたいと思います!(笑)


前回記事はコチラ
http://ac802tfk.com/blog-entry-460.html


12.9 Thursday
備中松山 1
臨時休業2日目となったこの日。
晴れの国・岡山」らしい晴れ間
恵まれ、レッツ・お出掛け!
備中松山 2
最寄り駅から一旦倉敷駅へ出て、
そこからは山間を縫って走る
伯備線(はくびせん)で、
高梁川(たかはしがわ)を
左手に望みながら、進行!
備中松山 3
川沿いを遡り、さらに奥へ!

山上にはが掛かっています。
こりゃ目的地は雲海の中かな・・・?
備中松山 4
倉敷駅を出て36分、
この日の目的地へアクセスするための
「最寄り駅」・備中高梁駅
(びっちゅうたかはしえき)に、到・着!

「高梁(たかはし)」という地名と、
駅名標に用いられた写真から、
もうお分かりの方も多いでしょう!

今回の「日帰り旅」の目的地は、
備中松山城!

高梁市街地の北方・
臥牛山(がぎゅうさん。標高480m)上に
聳える、中~近世の山城

天空の城(あの地平線~♪)とも称される
天険に築かれた城には、
数多ある日本の城の中でも12基のみ
貴重な現存天守が存在。

特に備中松山城の天守は
最も高所に築かれた
現存天守となっており、
その意味でも特異な存在となっています。
備中松山 5
そんな「町のシンボル」を、
地元・高梁市も全力でPR!

駅名標だけでなく、駅構内には
城をアピールしたパネルが
設置されています♪
備中松山 6
備中高梁(びっちゅうたかはし)駅は、
岡山県中西部の街・
高梁市中心駅

山陽地方と山陰地方を結ぶ
゛陰陽(おんみょう)連絡線″・
伯備線の主要駅の一つとして、
同線を走る普通列車半数ほど
同駅から倉敷・岡山方面へ折り返す他、

「伯備線のエース」・特急やくも
全列車停車

また関西圏・首都圏に直通可能な寝台特急
サンライズ出雲停車する等、
文字通り高梁市、および周辺地域にとっての
交通の拠点となっています。

この駅前から備北バス運行の
路線バスに乗り込み、5分あまり。
備中松山 7
「登山口」への最寄りバス停に、到~着!

「登山口」付近に着いてなお、
あたりには霧のように立ち込める

こりゃ城は冬の風物詩・
雲海の中かな?
(もっとも、今回はソレ目的ではないので、
急ぎはしませんが)
備中松山 8
バス停前に早速登場した、解説パネル!

ここは幕末の備中松山藩に仕え、
藩政に重きをなした漢学者・
山田方谷(やまだ ほうこく)が
起居した邸宅、
牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)の跡。

藩内の農商の家に生まれ、
幼少の頃より学才を発揮した「方谷先生」は、
天保7(1836)年、31歳で
藩校・有終館(ゆうしゅうかん)の
学頭(今でいうところの「校長先生」)に就任。

嘉永2(1849)年に藩主に就いた
板倉勝静(いたくら かつきよ)の下で
藩政のかじ取り役を任されると、
節制から借財整理、殖産興業、
軍制など多岐に渡る改革を断行。

その徹底ぶりは10万両におよぶ
藩の借財を完済
した上で、
さらに10万両の貯蓄を生み出すほど
だったとか。(スゲぇ・・・!)

また藩政に関与する傍ら
藩校・「有終館」で人材の育成
尽力し、
松山藩が朝敵とされた際には
藩と領民を守るためにいち早く
開城・降伏を決断するなど、

松山にこの人アリ!と言い得る
大人物であったそう。
(そのため高梁市では
「方谷先生を大河ドラマの主人公に!」
という運動がなされているそうですが、
実現の可能性は・・・限りなく低いだろうなぁ・・・)
備中松山 9
お隣に建てられた石碑には、
「方谷先生」のありがた~い言葉
刻まれています。
備中松山 10
足下のQRコードを携帯端末に読み込めば、
「方谷先生」や市内各所に建てられた石碑の
解説が見られるという、
親切設計♪
備中松山 11
バス停の周囲には・・・
備中松山 12
のどかな風景が広がります。
備中松山 13
バス停から少し歩いたところで、
登山道入口に到着!

ここから山上の城跡まではおよそ1.5km、
30分ほどの山道を登ります。

土日祝日と観光シーズンには
山麓の城見橋公園から
中腹の鞴峠(ふいごとうげ)まで、
登城整理バス
運行されているそうなのですが、

12月前半、平日のこの日は運休
車も持たない私は、
歩いて山上を目指します。

(入口に築かれた石垣
内側に構えられた枡形は、
存城当時のものでしょうか?)
備中松山 14
枡形を抜けてスグのところに建てられた石碑
(と解説板)は、
幕末の備中松山藩士・
三島中洲(みしま ちゅうしゅう)の邸宅、
虎口渓舎(ここうけいしゃ)の跡。

現在の倉敷市に生まれ、
「方谷先生」に学んだ中洲は、
松山藩士となって与えられた宅地に
私塾を開設。その評判は
藩外にまで聞こえるほどだったとか。

明治維新後は司法省出仕し、
大審院判事、東京帝国大学(現在の東京大学)教授(!)、
宮中顧問官(!!)などを歴任したそう。
(幕末の備中松山藩士、スゲー!)

「虎口渓舎」という名前からすると、
やはり先ほどの虎口(こぐち)枡形は
当時のものでしょうか・・・?
備中松山 15
「虎口渓舎」跡からの眺め。

なかなか良い場所ですな♪
備中松山 16
ではでは、「登城道」こと山道に、
突入!
備中松山 17
枯れ葉積もった急斜面を、進む。
(結構キツい💦)
備中松山 18
備中松山城が位置する
臥牛山(がぎゅうさん)は、
海猿野猿の生息地

臥牛山の野猿は
国の天然記念物にも指定されているそうで、
現在は人の手を離れ、自然へと帰す試みが
採られているとのこと。
(餌付けしといて「明日からお前ら
自給生活な!」というのも、
なかなか迷惑な話のような・・・)
備中松山 19
山中には、野猿と遭遇した場合の注意
記されています。
(しっかり「餌やり禁止」の項目も
明記されています。スッキリしませんが・・・
ルールなので守りましょう)

「登城」中(下山時も)、(猿に遭遇出来るかも・・・!)と
内心ワクワクしていた私でしたが、
結局会えず。残念。
備中松山 20
木の根を踏み越え、前へ!

ちょっと「探検」気分?
備中松山 21
「登城道」の道すがらには、
石の上にチョコンと鎮座した仏さま

江戸時代に置かれたのか、
それとも後代のものか・・・
難路に挑んだ先人たちも、
ここで道中の安全を祈ったのでしょうか・・・
備中松山 22
一際目立つ巨石は、
大内良雄腰掛石
(おおうちよしお こしかけいし)

大内良雄・・・またの名を
内蔵助(くらのすけ)と聞けば、
ご存じの方も多いでしょう!

主君・浅野内匠頭長矩
(あさのたくみのかみ ながのり)が
江戸城・松の廊下での刃傷事件により
自刃せし後、

主君の仇を討たんと立ち上がった
播州赤穂(ばんしゅうあこう)藩家老・
「大石内蔵助」と、
その下に集った四十七の勇士たち。

忠臣蔵の名であまりにも有名な
「忠義譚(たん)」の主人公である彼は、
元禄6(1693)年、当時の備中松山藩主・
水谷家が後嗣なくお家断絶となった際、

城の受け取りを命じられた主君に代わって、
備中松山城へ登城

水谷家家老・鶴見内蔵助(つるみ くらのすけ)との
「内蔵助会談(勝手に命名)」を経て、
無事城の受け取りに成功

元禄7(1694)年2月から
翌8(1695)年8月までの1年半にわたって、
備中松山城に滞在していました。
(あの「吉良邸討ち入り」は、
それから7年後のこと)

この石は「内蔵助」が調査のために登城した際、
休息のために腰掛けたもの。
この石に腰掛ければ、「内蔵助気分」を
味わえるかも・・・?
備中松山 23
段々日が差してきました。
雲海タイムは終了・・・かな?
備中松山 24
標高290m地点、鞴峠(ふいごとうげ)まで
登って参りました!(ふぃ~!)

ここはマイカーで登って来られる限界点
マイカー利用者はこの駐車場で車を降り、
歩いて城を目指すことになります。

目指す山上までは、あと一歩!


参考:各所解説パネル

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。