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徳島旅3 ~「阿波のまんなか」・徳島城! その1~

徳島県徳島市

徳島県東部、紀伊水道に面した
吉野川河口域に発展した街で、
約191.5㎢の範囲に
25万人ほどが居住する、

県下一の都市にして
県庁所在地

気候は瀬戸内地域に近く、
温暖にして穏やか

吉野川を始めとする大小さまざまな河川
風光明媚な眉山(びざん)に
抱かれた三角州上に拓かれた大地に、

阿波踊り人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)といった
伝統芸能
藍染め阿波しじら(織物)、木工品といった
伝統工芸

すだち海産物などの
豊かな地産品が育まれる、
恵まれた風土が特長。

そんな徳島の誕生・発展のきっかけとなったのは、
豊臣政権下での徳島城の築城と
城下町の整備、
そして江戸時代に入ってからの
徳島藩の立藩。

蜂須賀氏(はちすかし)14代の治政の下で、
徳島の街は阿波国(あわのくに)の
政治・経済の中心地として大きく発達。

廃藩後の明治22(1889)年に
市制を施行してからも
街は変わらず徳島県の中枢
位置にあり、

産業をはじめ徳島県内の政治、経済、
文化、教育、情報の集積地として、

また「本四連絡ルート」の一つ・
神戸・鳴門ルート
(明石海峡大橋~淡路島~大鳴門橋)と
四国各地を繋ぐ交通の結節点として、
重要な地位に在り続けています。



前回記事はコチラ
http://ac802tfk.com/blog-entry-489.html



うずしお 2-24
そんな徳島の街に、
約2時間の鉄旅を経て
やって来た私。
徳島城 1
降り立ちました徳島駅は、
言わずと知れた徳島市の中心駅

単式ホーム、島式ホーム各1面、
これに単式ホーム高松方に備えられた
切り欠きホームを加えた
2面4線のホームには、

徳島県きっての幹線であり、
゛四国の玄関″・香川県高松駅に通じる
高徳線(こうとくせん)、
高徳線から枝分かれし、
渦潮の街」・鳴門市へ至る
鳴門線(なるとせん)、

吉野川流域を遡り、県西部の阿波池田駅
土讃線(どさんせん)と接続する徳島線
高知県境近くまで南下し、
太平洋岸各市町を結ぶ牟岐線(むぎせん)の、
県内主要各路線が発着。

また駅構内には徳島地域の車両運用と管理を
一手に担う運行の拠点・徳島運転所
路線の維持・補修を請け負う徳島保線区
設定されている等、

まさに徳島鉄道網中心地としての
位置づけがなされています。


また駅ビルには
徳島クレメントプラザ
JRホテルクレメント徳島といった
商業施設・宿泊施設が入居し、

その規模は近隣3県の主要駅を凌ぎ、
四国最大
徳島城 2
広大な駅前ロータリーには大規模な
バスターミナルが設営され、
市内や近隣各都市への路線バス、
遠方への高速バスが発着。

その周囲にはアミコビル
徳島名店街ビルなどの
商業施設が集中し、

交通、人流、物流などの点からも、
まさに徳島市の中心と言える
充実ぶりを誇ります。
徳島城 3
そんな徳島駅前から
喧騒を避けるように南東へ進み、
徳島運転所を望む跨線橋を渡って、
駅の反対側へ!

そこに在るのが・・・
徳島城 4
徳島藩政の象徴・徳島城!


゛天下人″・豊臣秀吉の立身
天下統一事業において、
大きな役割を果たした蜂須賀家
(゛小六″の通称で知られる、
正勝(まさかつ)公が著名ですね)

天正13(1585)年、
阿波17万6,000石の領主に任じられた
蜂須賀家政(はちすか いえまさ)公は、

当時渭山(いのやま)と呼ばれていた
標高約61mの低山・城山を中心に、
北を助任川(すけとうがわ)、
南を寺島川(廃川。現在はJR線となっている)に挟まれた
天然の要害と言い得る立地に、
築城を開始。

普請に当たっては秀吉の命を受けた
伊予(愛媛県)の小早川隆景
(こばやかわ たかかげ)、
土佐(高知県)の長宗我部元親
(ちょうそかべ もとちか)、
近江(滋賀県)・比叡山の僧侶が動員され、
城造りに協力。
(天下普請の走り、でしょうか?)
徳島城 5
こうして完成した徳島城は、
城山山上に城の中心となる
本丸・東西二の丸・西三の丸を、

山麓に城主の住まいである御殿
隠居した藩主が暮らした西の丸を構えた、
平山城(ひらやまじろ)

(山上の中核部分は、
戦時に藩主らが籠もる
詰城(つめじろ)としての役割を
期待されたものと思われます)

大坂夏の陣では戦功により
淡路一国が加増され、
25万7,800石
大禄となった蜂須賀家の居城として、
14代、280年の統治の拠点となった徳島城。

廃藩後は城内に在った建築物は
鷲の門(わしのもん。後述)を除いて
残らず破却

残った鷲の門も戦災によって
焼失の憂き目に遭ってしまい、
現在では石垣と一部の水堀
表御殿の庭園のみが
藩政期を偲ばせるよすがとなっています。
徳島城 6
そんな徳島城で唯一の゛建築物″と
なっているのが、
大手の南東に構えられていた城門・
鷲の門(わしのもん)

徳島城の巽(たつみ。南東)の方角、
「三木曲輪(ミキハウスみきくるわ)」という
出丸のような曲輪に建てられていた門で、
城の表口に相当。

一対の本柱とその後ろに揃った控柱
その上に渡された冠木(かぶき)と
切妻屋根(きりづまやね)などから成る
薬医門(やくいもん)と
呼ばれる形式の門で、

門扉の両側に「勝手口」のような脇戸を、
南側には人の出入りを見張る番士が詰めた、
番所を併設。
北側は格子窓に切妻屋根を戴いた、
長屋のような造りとなっています。

「鷲の門」の名は、門の築造に当たって
徳島藩が幕府に鷲を飼うためと申し立て、
お墨付きをもらったことに
由来するのだとか。
徳島城 7
廃城によって城内の建築物が破却された後も、
唯一の残存建築として
城の名残りを留めていた、
鷲の門。

しかし昭和20(1945)年7月4日、
徳島市街に大打撃を与えた
徳島大空襲によって、
残された鷲の門もあえなく焼失

その後長く徳島城は県庁所在地でありながら
「建物のない城」となっていましたが、
平成元(1989)年、
徳島市制百周年を記念して、

東京・練馬区で学校を経営していた
吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より
復元・寄贈されました。
(スゴい!)
徳島城 7.5
在りし日の「鷲の門」。

現在は両側を自由に通行可能な
゛シンボル″的位置づけが強いですが、
当時は長屋部分が掘のそばまで伸び、
しっかり「表口」としての役割を
果たしていました。

その向こうには「鷲の門」を見張り、
城外に睨みを利かせる月見櫓と、
堀に突き出るように建てられた
屏風櫓(びょうぶやぐら)の、
二基の櫓が見えています。
徳島城 8
しっかり「城門」の雰囲気を醸し出す、
番所

一方の北側部分は、
誰でも自由に利用可能なフリースペース・
「腰掛長屋」となっています。
徳島城 9
それでは、城内へと入って参りましょう!
(もう入ってるか 笑)

「鷲の門」から「三木曲輪」を抜け、
最初に辿り着くのは、
下乗橋(げじょうばし)

御殿への正面入口・
大手門に渡るための橋で、
「下乗橋」の名はこの橋の前で
駕籠(かご)から降り、歩いて渡ったことに
由来しています。

元は木製太鼓橋(中央部分で上方へ
反り返った造りの橋)が架けられていましたが、
明治2(1869)年に石橋に、
さらに同41(1908)年に現在の形に
架け直されたそう。
徳島城 10
下乗橋を渡る際には、
左右の石垣にご注目!

右手側は築城時のまま、
自然石を巧みに組み合わせた
野面積み(のづらづみ)と
なっていますが・・・
徳島城 11
反対の左手は、石材に加工を施した上で
隙間なく積み上げる、
切込み接ぎ(きりこみはぎ)と
なっています!

「野面積み」は゛石垣の城″が生まれた
初期のもの、
「切込み接ぎ」は徳川幕府の治世が安定し、
より築城技術が磨かれた
元和年間(1615~24年頃)以降のもの。

それぞれに特徴と築造年代の異なる石垣が
同居する、不思議な光景。

さらにその向こう、黄線の先では
再び野面積みへと戻っていますが、
この部分だけ、築城後に積み直し
行われたのでしょうか・・・

(南海トラフ巨大地震の被害が
危惧されている、徳島県。
江戸時代にも大地震に見舞われた記録が
残されており、その際に崩落積み直し
なされたのかも知れません)
徳島城 12
大手門跡には、
築城のセオリー通り、
攻め手の通行を阻害し、
籠城側からの攻撃の機会を増やすための
枡形(ますがた)構造が
採り入れられています。

明治の破却処分によって
残念ながら建築物は残されては
いないものの、

往時は私が立っている位置に
簡素な造りの高麗門(こうらいもん)が、
人が歩いているあたりに
櫓門が構えられていたことでしょう。
(見える・・・見えるぞ・・・!)
徳島城 13
大手門付近に城主の権勢を誇示するが如き
巨石が多用されているのも、
城造りのセオリー通り。
徳島城 14
独特な質感と模様が表れた、
徳島城の石垣。

その石材は阿波の青石と称される、
阿波地域特有のもの。

正式には緑色片岩
(りょくしょくへんがん)と呼ばれる
変成岩(へんせいがん。火成岩や堆積岩などが、
地殻変動などにより組織の変化を
受けたもの)の一種で、

青みがかった色合いと、
加工のしやすさが特徴。
(石垣造りに打って付け!)

徳島城の石垣は、
阿波の青石」ならではな
複雑な模様と、大小・長短さまざまな石材の
組み合わせによって、

大変優美な印象を
眺める者に与えます。

(この阿波の青石は次回記事にてご紹介予定の
旧表御殿庭園でも多用されており、
徳島城のアイコンと言っても
過言ではありません!)
徳島城 15
大手門脇を固めた太鼓櫓跡に、
お上り。
徳島城 16
太鼓櫓台上の風景。

「太鼓櫓」は平時は城内や城下に
時を報せ、
合戦時には攻撃・退却の合図を出すための
太鼓が置かれた場所。

大手門そばに置かれた櫓は、
防衛施設としても、
時報の発信場所としても
重要な役割を果たしていたことでしょう。

画面右手に見えるのは、
戦前ラジオ放送を民間に普及させるため、
ラジオの受信・放送を行っていた構造物、
ラジオ塔

徳島市では昭和8(1933)年、
日本放送協会(NHK)
徳島放送局が開局された記念に、
ここ太鼓櫓跡にラジオ塔を設置。

現在置かれているラジオ塔は、
当時のもの
昭和58(1983)年に修理復元したもの。

戦前日本の暮らしを知る
貴重な手掛かりとして、
(ひっそりと)保存・公開されています。
徳島城 17
太鼓櫓台先端に立てられた
船のマストのような構造物は、

日露戦争に備えて配備された
(ただし間に合わなかった)
神風型駆逐艦(初代)の13番艦・
追風(おいて)のもの・・・の、レプリカ

(説明書きには「日清・日露に歴戦」とあるが、
嘘っぱちのようである。オイオイ)

「ラジオ塔」が建てられる一年前の
昭和7(1932)年、
徳島市海軍班なる集団によって、
「国家の興隆と民族の安泰を希(ねが)い」、
前年に高知沖で海没処分となった
追風の檣(しょう。マスト)を移設

昭和41(1966)年、
台風により倒壊してしまい、
修復不能のダメージを受けましたが、

2年後の43(1968)年、
明治到来100年を記念して、
旧海軍軍人有志により
「平和を祈念」して復元されました。
徳島城 18
太鼓櫓台上より、「下乗橋」と「三木曲輪」跡、
「鷲の門」を望む。

こうして見てみると、
太鼓櫓が防衛上いかに重要な場所に
建てられていたかが、
よく分かります。
徳島城 19
大手門跡の先、お花見広場と呼ばれる
広大な広場は、

藩主やその家族が暮らし、
大勢の家臣や女中が侍っていた、
御殿の跡。

かつての政務や生活の場は、
今は子供や若者たちの笑顔がこだまする
遊戯の場
市街地中心にあって豊かな緑に触れられる
散策の場として、
徳島市民に親しまれています。
徳島城 2-1
徳島城散策、まだまだ続きます!


参考:徳島市
    徳島県庁コールセンター・
    すだちくんコール
    日本100名城ガイド
    コトバンク
    Wikipedia


徳島城跡 「鷲の門」

〒770-0851
徳島県徳島市徳島町城内

営業時間
散策自由

定休日
なし

お問い合わせ
徳島市立徳島城博物館
TEL 088-656-2525
徳島市都市整備部公園緑地課管理担当
TEL 088-621-5295

アクセス

徳島自動車道 徳島ICより 約10分
神戸淡路鳴門自動車道または
高松自動車道 鳴門ICより 約20分

駐車場
東側駐車場:89台
4月1日~9月30日
8:30~21:00まで
10月1日~3月31日
8:30~18:00まで

西・南側駐車場:116台
平日 8:00~21:00
土日祝 7:30~21:00
※利用料金はいずれも有料

公共交通機関
JR徳島駅より 徒歩約10分

日本100名城スタンプをご希望の方は、
徳島城博物館受付カウンターまで!
※休館日、開館時間に注意!

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。