徳島旅5 ~「阿波のまんなか」・徳島城! その3~
- 2022/05/27
- 21:14
冬が明けてからしばらく身体を苦しめていた
朝の寒さがようやく和らぐ一方、
夏日連発状態、順調に上がり続ける
昼間の温度に、
夏が迫りつつあることを感じます。
酷暑に見舞われるであろう
熱射の季節は、これから!
引き続き新型コロナウイルスへの警戒は怠らず、
新たに訪れる熱中症などの脅威にも、
十分にお気を付けくださいませ!
ゴールデンウィークの思い出を
掘り起こしながら進めております、
「徳島旅」編。
到着初日は「阿波藩政の中心」にして
日本100名城にも選ばれている
権勢と威光の象徴・
徳島城を探索中!
前回記事はコチラ
http://ac802tfk.com/blog-entry-491.html

城内唯一の建築物(復元)・
「鷲(わし)の門」から城内へ入り、
「旧徳島城表御殿庭園」、
「SL展示場」の順で
山麓部分を観て回った後は・・・

いよいよ城の主要部が置かれていた、
城山(しろやま)へ!

城山は徳島市街中心部、
眉山(びざん)からなだらかに伸びる稜線の
末端に位置する小高い丘陵で、
標高61.7m、範囲は東西約400m、
南北約200m。
山体全域は古来から自生する
常緑広葉樹に覆われ、
ホルトノキ(「徳島市の木」に指定)を始めとする
豊かな樹勢が城山原生林として
保護されている他、
山麓からは太古の昔、
紀元前1500年~紀元前500年ごろ
(縄文時代後期~弥生時代前期)
のものと見られる人々の生活痕・
城山貝塚が出土。
そんな豊かな自然と太古の歴史が残る
山中深くには、
城内最高所に築かれた本丸を頂点として、
東二の丸・西二の丸・西三の丸の
4つの曲輪が存在。
平時に藩主の住まい、藩政を司り、
政庁としての役割を持っていた御殿に対し、
本丸には戦時の避難場所兼指揮所となる
御座敷が、
一段下がった東二の丸には
城のシンボルである、
三層の天守が築かれていました。

今回は斜面の東側、
東坂口と呼ばれるルートから、
山上へアタック!
自然の地形か、
はたまた人の手によるものか、
ジグザグに折り曲げられた坂道を、
汗かきながら登ります。
登城口はしっかり整備され、
階段・手すりが取り付けられているとはいえ、
平均角度35.9度と、
余裕で息切れするレベル(笑)
階段横から大きく突き出しているのは、
「阿波の青石」こと
緑色片岩
城山山中からは切り出されてはいない
ようですが、
同種の石が徳島城の石垣に
用いられています。

しばらく進むと、正真正銘、
人の手による築造物である石垣が
見えて来ました!
(櫓台と思われる)
地図によれば、
この付近は「東二の丸」への入り口となる
東二の丸門が置かれた、
重要な場所。
それを示すように
その手前で「登城道」は大きく右手へと曲げられ、
攻め手を゛招く″かのように、
曲輪の中へと続きます。

「東二の丸門」を抜けた先が、
本丸東麓を固めていた曲輪・
東二の丸跡。
やや狭く、斜面を平らにならしたような風趣が、
中世山城(渭山城)の名残りを思わせます。

東二の丸奥に建てられた、
「天守跡」の碑。
本来天守といえば
城の中心となる本丸に置かれるのが
築城のセオリーであり、
実際徳島城でも築城時には
本丸に天守が建てられていたそうなのですが、
元和年間(1615~24年頃)に
破却
(理由は定かではありませんが、
外様大名、それも豊臣重臣の出という
立場であったが故に、
幕府への配慮があったのかも知れません)
代わってこの場所に建てられたのが、
御三階櫓と呼ばれる
天守の代用品。
三重三階、櫓台を置かずに
直接曲輪上に建てられた建築物で、
下層から上層へ向けて一定の間隔で
大きさをすぼめながら層を重ねて行く
層塔型(そうとうがた)という
江戸期以降の建築技法をベースにしながら、
それ以前の望楼型(ぼうろうがた)に多く見られる
入母屋破風(いりもやはふ)や
向唐破風(むかいからはふ)といった
飾り屋根を備えた、
折衷様式となっていたようです。
本丸天守破却以後はこの「御三階櫓」が
徳島城のシンボルとして
徳島平野を睥睨(へいげい)していましたが、
廃城によって他の建築物ともども破却
櫓台を持たぬ造りであったため、
その痕跡は一切残されてはいません。
(復元・・・できないかなぁ~?)

「東二の丸」からの眺め。
わずかに開けた視界から、
徳島市街(というかビル群)を
望むことが出来・・・ます?

「東二の丸」を抜けると、
いよいよ「本丸」へ!
天守破却後も、
本丸が城の心臓部であることは不変。
その最重要拠点に上る道筋を
遮るように、
複雑な屈曲を描いた石垣が、
まさしく゛壁″のごとく立ちはだかります!

櫓台をすり抜け、石段を上り切った先が、
徳島城最後の砦となる、
本丸
城山山上でも最も高い場所に位置し、
最も広い空間とされた曲輪には、
籠城時に藩主の「御座所」となる
御座敷の他、
藩主に代わって城山の管理を請け負う
御城山定番(おしろやまじょうばん)の詰めた、
御留守番所といった
重要施設が集中。
曲輪内には「弓櫓」や「武具櫓」、「馬具櫓」、
「火縄櫓」といった櫓が上げられ、
平時は武器の保管庫として、
戦時には敵を防ぐ防御施設としての使用が
想定されていました。
本丸には東西二ヶ所の出入り口が
設けられていますが、
本丸北側、御座敷に隠すようにして、
常時はその名の如く石などで埋められた
埋門(うずみもん)という門が構えられ、
万一の際の脱出路も
確保されていました。
(城の北側、助任川(すけとうがわ)に面した
「水の手」(飲み水を確保するための場所)に、
脱出用の門が設けられていた様子。
非常時はそこに舟を横付けして、
城主一家を逃がす手はずだったのでしょう)

本丸東側に残る、
一際大きな櫓台の跡。
あるいはこの上に、
築城時の天守が
在ったのかも知れません。

本丸西側の出入り口。
この先には本丸西方を固める
西二の丸、
その下に西三の丸の、
二つの曲輪が存在。
うち「西三の丸」には、
現在徳島市内各所に水を供給する
水道の拠点となる、
城山配水池が設けられています。
本当はこちら側から登って来たかった
のですが・・・
山麓の西坂口が閉鎖されていたため、
断念。
元来た道(東坂口)を引き返し、
城山山麓へと戻ります。

豊かな原生林が生い茂り、
緑色片岩に代表される太古の地質が
名残りを留める、城山。
そんな歴史を物語るのが、
山麓に点在している遺跡・
城山貝塚
貝塚とは遠い昔、
先史以前(旧石器時代~弥生・古墳時代頃)に
集落を形成していた人々が、
食した貝の貝殻や獣・魚の骨、
土器、人骨などを廃棄した、
ゴミ捨て場のような場所。
(※諸説アリ)
城山山麓では洞窟などを利用して築かれた、
1~5号の5箇所の貝塚が
出土(うち4号は消滅、5号は行方不明とか)。
それら貝塚からは縄文後期~弥生前期にかけて
遺棄されたと見られる
貝殻や獣、魚の骨の他、
土器片や人骨も出土。
当時の人々の暮らしぶりを物語る
貴重な遺構であるとともに、
当時の城山が海岸線に面していたことを示す、
物的証拠ともなっています。

貝塚のそばには、
発見者となった徳島市出身の考古学者・
鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう)氏を顕彰した
レリーフが建てられています。
大正11(1922)年、
当時東京帝国大学(現在の東京大学)
助教授の職に就いていた鳥居氏は、
徳島県下の貝塚を調査中に
城山山麓から貝殻が出て来るという
噂話を聞き付け、
発掘調査に着手。
結果1号貝塚、次いで2号貝塚が
発見され、
阿波における縄文時代の人々の生活を
物語る大発見として、
大々的に報じられたそう。
鳥居氏の帰京後も
残された現地スタッフの手で
発掘調査は続けられ、
多数の出土品が出現!
これらの品はその多くが鳥居氏が教鞭を執った
東京大学の総合研究所に
保管されている他、
一部が鳥居氏を顕彰した博物施設・
鳥居龍蔵記念博物館
(徳島市八万町向寺山)に
貸し出されているそう。

城を巡り、゛古代浪漫″にも触れた後は、
コインロッカーに預けた荷物を取りに
徳島駅へと向かいつつ、
夕食に良さげなお店を探して
キョロキョロ。

その途中で見つけたのは、
セルフ うどん やま
徳島駅前店
お隣・香川県高松市に本社を置き、
徳島県内を中心にうどん屋や
回転寿司、餃子のテイクアウト店を展開する、
夢喰房(ゆめくうぼう)
グループの一店舗。

注文方式は「讃岐うどんの本場」・
香川県に本拠を置く企業らしく、
メインとなるうどんを注文してから
゛お好み″でサイドメニューを
追加して行く、
セルフ式
今回は温玉ぶっかけうどんをメインに、
コロッケとから揚げ
各1個を追加。
うどんは香川県善通寺市の
こだわり八輻(はちや)さんで
予想外の大ボリュームに
苦戦した経験から、
小サイズ(360円。おトク!)をチョイス。

どんぶりを満たすのは、
瀬戸内海産最高級イリコに、
香川県琴平町(ことひらちょう。
「こんぴらさん」で有名!)で
讃岐うどん専用のダシ醤油を作る
京兼醸造と共同開発したという
特製醤油を合わせた、
こだわりのダシ汁!
薫り高くサッパリした風味で
食欲を刺激する、
「魔法の液体」の中からは・・・

これまた「讃岐の味」を思わせる、
コシ強、モチモチ太麺!
こちらも厳選された小麦粉に軟水と塩を
絶妙なバランスで合わせた、
こだわり麺
(おまけに極力「出来立て」のモノを
提供するため、
仕上がり二十分以内の麺のみを
使用するというこだわりぶり!)
そんな「こだわり」がたっぷり詰まった麺は、
一本一本に歯ごたえとボリュームを
内包しながらも、
ダシ汁との相乗効果もあって、
スルスル入る!
「お供」の二品との相性も良く、
大満足の一杯!
ごちそうさまでした!

この日の散策は、ここまで!
夕照に包まれた徳島駅前を抜け、
この日のお宿(ハイパーイン メイアップ徳島)へ
向かいます!
参考:阿波の偉人再発見! 鳥居龍蔵
夢喰房
Wikipedia
セルフ うどん やま 徳島駅前店
〒770-0832
徳島県徳島市寺島本町東3-12-7
営業時間
7:30~20:00
定休日
年中無休
お問い合わせ
TEL 088-611-3622
アクセス
車
徳島自動車道 徳島ICから 約10分
神戸淡路鳴門自動車道または
高松自動車道 鳴門ICより 約20分
※お店の駐車場はありません
公共交通機関
JR徳島駅から 徒歩約2分
朝の寒さがようやく和らぐ一方、
夏日連発状態、順調に上がり続ける
昼間の温度に、
夏が迫りつつあることを感じます。
酷暑に見舞われるであろう
熱射の季節は、これから!
引き続き新型コロナウイルスへの警戒は怠らず、
新たに訪れる熱中症などの脅威にも、
十分にお気を付けくださいませ!
ゴールデンウィークの思い出を
掘り起こしながら進めております、
「徳島旅」編。
到着初日は「阿波藩政の中心」にして
日本100名城にも選ばれている
権勢と威光の象徴・
徳島城を探索中!
前回記事はコチラ
http://ac802tfk.com/blog-entry-491.html

城内唯一の建築物(復元)・
「鷲(わし)の門」から城内へ入り、
「旧徳島城表御殿庭園」、
「SL展示場」の順で
山麓部分を観て回った後は・・・

いよいよ城の主要部が置かれていた、
城山(しろやま)へ!

城山は徳島市街中心部、
眉山(びざん)からなだらかに伸びる稜線の
末端に位置する小高い丘陵で、
標高61.7m、範囲は東西約400m、
南北約200m。
山体全域は古来から自生する
常緑広葉樹に覆われ、
ホルトノキ(「徳島市の木」に指定)を始めとする
豊かな樹勢が城山原生林として
保護されている他、
山麓からは太古の昔、
紀元前1500年~紀元前500年ごろ
(縄文時代後期~弥生時代前期)
のものと見られる人々の生活痕・
城山貝塚が出土。
そんな豊かな自然と太古の歴史が残る
山中深くには、
城内最高所に築かれた本丸を頂点として、
東二の丸・西二の丸・西三の丸の
4つの曲輪が存在。
平時に藩主の住まい、藩政を司り、
政庁としての役割を持っていた御殿に対し、
本丸には戦時の避難場所兼指揮所となる
御座敷が、
一段下がった東二の丸には
城のシンボルである、
三層の天守が築かれていました。

今回は斜面の東側、
東坂口と呼ばれるルートから、
山上へアタック!
自然の地形か、
はたまた人の手によるものか、
ジグザグに折り曲げられた坂道を、
汗かきながら登ります。
登城口はしっかり整備され、
階段・手すりが取り付けられているとはいえ、
平均角度35.9度と、
余裕で息切れするレベル(笑)
階段横から大きく突き出しているのは、
「阿波の青石」こと
緑色片岩
城山山中からは切り出されてはいない
ようですが、
同種の石が徳島城の石垣に
用いられています。

しばらく進むと、正真正銘、
人の手による築造物である石垣が
見えて来ました!
(櫓台と思われる)
地図によれば、
この付近は「東二の丸」への入り口となる
東二の丸門が置かれた、
重要な場所。
それを示すように
その手前で「登城道」は大きく右手へと曲げられ、
攻め手を゛招く″かのように、
曲輪の中へと続きます。

「東二の丸門」を抜けた先が、
本丸東麓を固めていた曲輪・
東二の丸跡。
やや狭く、斜面を平らにならしたような風趣が、
中世山城(渭山城)の名残りを思わせます。

東二の丸奥に建てられた、
「天守跡」の碑。
本来天守といえば
城の中心となる本丸に置かれるのが
築城のセオリーであり、
実際徳島城でも築城時には
本丸に天守が建てられていたそうなのですが、
元和年間(1615~24年頃)に
破却
(理由は定かではありませんが、
外様大名、それも豊臣重臣の出という
立場であったが故に、
幕府への配慮があったのかも知れません)
代わってこの場所に建てられたのが、
御三階櫓と呼ばれる
天守の代用品。
三重三階、櫓台を置かずに
直接曲輪上に建てられた建築物で、
下層から上層へ向けて一定の間隔で
大きさをすぼめながら層を重ねて行く
層塔型(そうとうがた)という
江戸期以降の建築技法をベースにしながら、
それ以前の望楼型(ぼうろうがた)に多く見られる
入母屋破風(いりもやはふ)や
向唐破風(むかいからはふ)といった
飾り屋根を備えた、
折衷様式となっていたようです。
本丸天守破却以後はこの「御三階櫓」が
徳島城のシンボルとして
徳島平野を睥睨(へいげい)していましたが、
廃城によって他の建築物ともども破却
櫓台を持たぬ造りであったため、
その痕跡は一切残されてはいません。
(復元・・・できないかなぁ~?)

「東二の丸」からの眺め。
わずかに開けた視界から、
徳島市街(というかビル群)を
望むことが出来・・・ます?

「東二の丸」を抜けると、
いよいよ「本丸」へ!
天守破却後も、
本丸が城の心臓部であることは不変。
その最重要拠点に上る道筋を
遮るように、
複雑な屈曲を描いた石垣が、
まさしく゛壁″のごとく立ちはだかります!

櫓台をすり抜け、石段を上り切った先が、
徳島城最後の砦となる、
本丸
城山山上でも最も高い場所に位置し、
最も広い空間とされた曲輪には、
籠城時に藩主の「御座所」となる
御座敷の他、
藩主に代わって城山の管理を請け負う
御城山定番(おしろやまじょうばん)の詰めた、
御留守番所といった
重要施設が集中。
曲輪内には「弓櫓」や「武具櫓」、「馬具櫓」、
「火縄櫓」といった櫓が上げられ、
平時は武器の保管庫として、
戦時には敵を防ぐ防御施設としての使用が
想定されていました。
本丸には東西二ヶ所の出入り口が
設けられていますが、
本丸北側、御座敷に隠すようにして、
常時はその名の如く石などで埋められた
埋門(うずみもん)という門が構えられ、
万一の際の脱出路も
確保されていました。
(城の北側、助任川(すけとうがわ)に面した
「水の手」(飲み水を確保するための場所)に、
脱出用の門が設けられていた様子。
非常時はそこに舟を横付けして、
城主一家を逃がす手はずだったのでしょう)

本丸東側に残る、
一際大きな櫓台の跡。
あるいはこの上に、
築城時の天守が
在ったのかも知れません。

本丸西側の出入り口。
この先には本丸西方を固める
西二の丸、
その下に西三の丸の、
二つの曲輪が存在。
うち「西三の丸」には、
現在徳島市内各所に水を供給する
水道の拠点となる、
城山配水池が設けられています。
本当はこちら側から登って来たかった
のですが・・・
山麓の西坂口が閉鎖されていたため、
断念。
元来た道(東坂口)を引き返し、
城山山麓へと戻ります。

豊かな原生林が生い茂り、
緑色片岩に代表される太古の地質が
名残りを留める、城山。
そんな歴史を物語るのが、
山麓に点在している遺跡・
城山貝塚
貝塚とは遠い昔、
先史以前(旧石器時代~弥生・古墳時代頃)に
集落を形成していた人々が、
食した貝の貝殻や獣・魚の骨、
土器、人骨などを廃棄した、
ゴミ捨て場のような場所。
(※諸説アリ)
城山山麓では洞窟などを利用して築かれた、
1~5号の5箇所の貝塚が
出土(うち4号は消滅、5号は行方不明とか)。
それら貝塚からは縄文後期~弥生前期にかけて
遺棄されたと見られる
貝殻や獣、魚の骨の他、
土器片や人骨も出土。
当時の人々の暮らしぶりを物語る
貴重な遺構であるとともに、
当時の城山が海岸線に面していたことを示す、
物的証拠ともなっています。

貝塚のそばには、
発見者となった徳島市出身の考古学者・
鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう)氏を顕彰した
レリーフが建てられています。
大正11(1922)年、
当時東京帝国大学(現在の東京大学)
助教授の職に就いていた鳥居氏は、
徳島県下の貝塚を調査中に
城山山麓から貝殻が出て来るという
噂話を聞き付け、
発掘調査に着手。
結果1号貝塚、次いで2号貝塚が
発見され、
阿波における縄文時代の人々の生活を
物語る大発見として、
大々的に報じられたそう。
鳥居氏の帰京後も
残された現地スタッフの手で
発掘調査は続けられ、
多数の出土品が出現!
これらの品はその多くが鳥居氏が教鞭を執った
東京大学の総合研究所に
保管されている他、
一部が鳥居氏を顕彰した博物施設・
鳥居龍蔵記念博物館
(徳島市八万町向寺山)に
貸し出されているそう。

城を巡り、゛古代浪漫″にも触れた後は、
コインロッカーに預けた荷物を取りに
徳島駅へと向かいつつ、
夕食に良さげなお店を探して
キョロキョロ。

その途中で見つけたのは、
セルフ うどん やま
徳島駅前店
お隣・香川県高松市に本社を置き、
徳島県内を中心にうどん屋や
回転寿司、餃子のテイクアウト店を展開する、
夢喰房(ゆめくうぼう)
グループの一店舗。

注文方式は「讃岐うどんの本場」・
香川県に本拠を置く企業らしく、
メインとなるうどんを注文してから
゛お好み″でサイドメニューを
追加して行く、
セルフ式
今回は温玉ぶっかけうどんをメインに、
コロッケとから揚げ
各1個を追加。
うどんは香川県善通寺市の
こだわり八輻(はちや)さんで
予想外の大ボリュームに
苦戦した経験から、
小サイズ(360円。おトク!)をチョイス。

どんぶりを満たすのは、
瀬戸内海産最高級イリコに、
香川県琴平町(ことひらちょう。
「こんぴらさん」で有名!)で
讃岐うどん専用のダシ醤油を作る
京兼醸造と共同開発したという
特製醤油を合わせた、
こだわりのダシ汁!
薫り高くサッパリした風味で
食欲を刺激する、
「魔法の液体」の中からは・・・

これまた「讃岐の味」を思わせる、
コシ強、モチモチ太麺!
こちらも厳選された小麦粉に軟水と塩を
絶妙なバランスで合わせた、
こだわり麺
(おまけに極力「出来立て」のモノを
提供するため、
仕上がり二十分以内の麺のみを
使用するというこだわりぶり!)
そんな「こだわり」がたっぷり詰まった麺は、
一本一本に歯ごたえとボリュームを
内包しながらも、
ダシ汁との相乗効果もあって、
スルスル入る!
「お供」の二品との相性も良く、
大満足の一杯!
ごちそうさまでした!

この日の散策は、ここまで!
夕照に包まれた徳島駅前を抜け、
この日のお宿(ハイパーイン メイアップ徳島)へ
向かいます!
参考:阿波の偉人再発見! 鳥居龍蔵
夢喰房
Wikipedia
セルフ うどん やま 徳島駅前店
〒770-0832
徳島県徳島市寺島本町東3-12-7
営業時間
7:30~20:00
定休日
年中無休
お問い合わせ
TEL 088-611-3622
アクセス
車
徳島自動車道 徳島ICから 約10分
神戸淡路鳴門自動車道または
高松自動車道 鳴門ICより 約20分
※お店の駐車場はありません
公共交通機関
JR徳島駅から 徒歩約2分