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2022 夏旅3 ~「赤穂義士の仰ぎし城」・赤穂城~

夏休みの旅模様を
(周回遅れくらいの遅れで)
綴りはじめました、「夏旅」編。


前回記事はコチラ
http://ac802tfk.com/blog-entry-522.html


花岳寺 18

花岳寺墓地 3
前回までは「忠臣蔵」で名高き
赤穂義士たちが眠る菩提寺
花岳寺(かがくじ)にお参りし、

昔日の趣を留める境内の様子や
本堂天井に描かれた見事な天井画を
拝観!

続いて境内奥に眠る
赤穂義士たちの墓前にて
掌を合わせ、

義士たちの生き様や覚悟
一念に主を思う忠義の心
想いを馳せて参りました。
大石神社 1
「忠臣蔵成分たっぷり」
花岳寺を離れ、
いよいよ彼らが「主君」と仰いだ
赤穂藩浅野家の城、
赤穂城へ!
赤穂城 2

赤穂城 3
城下町の面影残す、
その名も「お成り道」を歩いて行くと・・・
赤穂城 4
立派な石垣が出現!
赤穂城 5
やって来ました、
赤穂城!

正保2(1645)年、
常陸国(茨城県)笠間から
はるばる赤穂の地へとやって来た、
藩祖・浅野長直(あさの ながなお)公。

赤穂城はその居城として
13年にも亘る
工期を経て、
寛文元(1661)年に完成しました。

それまで赤穂を治めていた
池田家(分家)が築いた
掻上城(かきあげじょう)の
縄張り(設計)を活かし、

5,3000石の大名家に相応しい城として
完成した赤穂城は、

幕府による統治が安定し、
一国一城令(いっこくいちじょうれい)や
武家諸法度(ぶけしょはっと)等による
厳しい統制が取られていた時代には
大変珍しい、
新規に築城されたお城。

(このような例は全国的にも稀有であり、
城郭研究者から同城が注目される
一要素ともなっています)

赤穂城は東は熊見川(現在の千種川)河口、
南は播磨灘に面し、
北は平地となって城下町
西には家臣たちが住まう
武家屋敷が広がる、

海城(うみじろ)として
設計されました。
(現在では埋め立てにより、
完全に陸地に取り込まれています)
赤穂城 6
外様大名の城としては異例の、
完全新規設計の城となった、
赤穂城。

その構造もまた特異なもので、
通常城づくりに於いては
単一の形式を用いて
「縄張り(設計)」が行われるのに対し、

赤穂城では
変形輪郭式
(へんけいりんかくしき)と呼ばれる、
複数の構造を取り入れた
独特な縄張りが行われています。

これは城の中心となる本丸を
二之丸が円形に取り囲む
輪郭式(りんかくしき)に、

二之丸・三之丸が直線状に並ぶ
梯郭式(ていかくしき)を
組み合わせた、
大変珍しいもの。

(背後をに、
一方を千種川の河口に守られ、
敵の進軍路が限定される立地故に
陸側の備えを厚くし、

同時に本丸周辺の守りをより
強固なものとする狙いが
あったのかも知れません)

これら三つの郭に12の城門
10の櫓を揃えて守りを固め、
有事の際には海側に設けられた
水手門から、
船で脱出する手はずが
整えられていたことでしょう。

(海に面し、船着き場(船入)
設けられていたことも
確認されています)
赤穂城 19
こうして完成された赤穂城でしたが、
40年後の元禄14(1701)年には
あの「松の廊下事件」が発生し、
浅野家は改易

その後は譜代の永井家を経て
西江原(えばら。現在の岡山県井原市)から
津山藩森家から分家した
森長直(もり ながなお)公が入封し、

以後森家12代の居城として
動乱の幕末を迎えることとなりました。
赤穂城 7
戦に巻き込まれることなく、
無事明治新政の世を迎えた、
赤穂城。

しかし明治6(1873)年に明治政府より
廃城令が発布されると、
同9(1876)年より赤穂城でも
建築物の破却が開始され、

のちに千種川の護岸工事に
石垣の石材転用されるなど、
その姿は大きく損なわれてしまいました。
(もったいない・・・)

現在では天守台を含め、
転用された部分を除く
大部分の石垣の他
土塁水堀残存

また大戦前後以降順次城門や櫓、
本丸・二之丸庭園などの復元
進められ、

完全ではないにせよ
江戸の世では珍しい「完全新築城郭」は
かつての姿を取り戻しつつあるようです。
赤穂城 8
大手門そば、
城郭北端部に建てられた、
大手隅櫓

東西4間半(約8.2メートル)、
南北3間半(約6.4メートル)の台座上に
築かれた二重櫓で、

立ち位置からも分かる通り
城の「正門」となる大手門の
監視と防衛を担う、
重要な施設

明治初期の廃城とともに
破却され
失われた状態となっていましたが、
第二次大戦終結後の昭和30(1955)年に
三之丸大手門とともに
復元されました。

(ただし破却前とは形状の異なる
部分がある様子。
このあたりは゛勢い″のあった
戦後らしいというか・・・)
赤穂城 9
それでは、゛城内″へと
入って参りましょう!

城の正面入口となる、
三之丸大手門は、
「大手隅櫓」と同じく
昭和30年の復元

来訪者(あるいは敵軍)が最初に潜る
「正門」らしく、
堂々たるたたずまい!
赤穂城 10
外堀を渡る円弧状の橋・
太鼓橋(たいこばし)は、
昭和10(1935)年の復元

大手門前の外堀ともども、
赤穂城では最初に復元された
構造物でもあります。

その向こうに見えるのは、
大手門枡形の外側に位置する
高麗門(こうらいもん)

一対の「本柱」の後ろに
これまた一対の「控柱」を建て、
「本柱」上部に切妻屋根(きりづまやね)を
渡した、
比較的簡素な造りの城門。

櫓は設けられてはいませんが、
城外から太鼓橋を渡って押し寄せた
まずこの高麗門で押しとどめ、

その間に周囲に空けられた
狭間(さま。鉄砲や弓矢を射掛けるための、
攻撃用の穴)や大手隅櫓から応戦

突破された場合は枡形内に
敵を誘い込み、
櫓門を含めた周囲から
再び攻撃を加える、
という仕組みになっていました。




太鼓橋を渡る前に、
周囲の石垣にもご注目!
徳島城 4
例:徳島県徳島市 徳島城

通常城の石垣は、
このように直線状に配置されて
いるものですが・・・
赤穂城 11
赤穂城では複雑に屈折した
配置が採用されています。

これは平和な時代となった江戸時代以降に
戦の手法を伝えるために
研究・発達された兵学
甲州流軍学
(こうしゅうりゅうぐんがく)を城の設計に
採り入れたため。

城方が射撃を行う際に生じる
死角を無くして自由な射角を獲得し、
側面からの攻撃を容易にする
ことを
念頭に置いて、

念入りにして周到な
「縄張り」が行われています。
赤穂城 20
甲州流軍学「山鹿流」の開祖・
山鹿素行(やまが そこう)。

承応元(1652)年から9年間
赤穂藩に出仕して
多くの書物を著した他、
浅野内匠頭長矩公や
大石内蔵助ら藩主・藩士の養育にも
努めました。


甲州流軍学とは、
戦国時代「最強」を誇り、
あの織田信長にも恐れられた精鋭軍団・
武田氏を手本として、
その兵法・築城術を探求したもの。

築城に当たっては
赤穂藩に仕えた兵学者・
近藤正純(こんどう まさずみ)が
設計者を務め、

一部には山鹿素行の意見
採用されるなど、全面的に
甲州流軍学に基づいた
城づくりが為されているのが特徴。

このような「甲州流軍学」ならではの工夫は、
射撃だけでなく敵侵攻路の限定や妨害
脱出路の確保など
実に多岐にわたります。
赤穂城 12
「高麗門」を潜った先に現れる、
大手門枡形

城外側に面した「高麗門」と
次の「櫓門(黄線部分)」との間に
四角く区切られた空間で、
「高麗門」を突破した敵軍を押しとどめ、
反撃を加えるための防御施設

周囲はご覧のように
高く強固な石垣で囲まれ、
敵の進軍路を限定するとともに
攻め手側からの視界を遮断

さらに通路を敢えて直角に
(しかも二度も!)曲げることで、
敵軍の勢いを削ぎ、
城方からの攻撃を容易とする

狙いもありました。

そうして「枡形」内に誘い込まれた
敵兵に対しては、
前面の櫓門、さらに石垣上に配された城兵から
苛烈な集中砲火
浴びせられたことでしょう。

(つまりこうしてのんきに立っている私は、
もう死んでいることになります 笑)
赤穂城 13
大手門枡形内の石垣。

赤穂城の石垣は、
自然石に加工を施し、
隙間を減らした石材を用いた
打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)

これを石材の向きを揃えず、
不規則に積み上げる
乱積み(らんづみ)と呼ばれる
技法を用いて積み上げられています。

目立つ位置に巨石が置かれているのは、
大名家の権威と財力を内外へと示す、
いわばアピール
赤穂城 14
「櫓門」跡を潜った先に建つ
番所跡休憩所は、
赤穂城について解説した
ガイダンス施設
休憩スペースを兼ねた場所。

平成14(2006)年、
明治以降改変されていた
「大手門枡形」の復元とともに、
「番所」が建てられていた位置に
整備されました。

番所とは門や関所など
人通りの多い場所に建てられた、
監視施設。

平時はここに警備の兵が常駐し、
門を通行する人の監視や
積み荷の確認などを行っていました。
赤穂城 16
「大手門桝形」から
「武者溜まり(むしゃだまり。
出陣に際し、軍勢が集結した広場)」を
抜けた先、

今はただっ広い平地が
広がっている三之丸跡は、
かつては浅野家に仕える家臣たちの
武家屋敷が並んでいたトコロ。

(有事の際には、
敵軍を押しとどめる防衛線とも
なったことでしょう)

現在では当時を物語る建物は
ほとんど残されてはいませんが、
その中でも希少な現存建築
なっているのが、
大石邸長屋門

名前からもうお分かりでしょう!
あの「吉良邸討ち入り」の首魁にして、
赤穂藩浅野家筆頭家老・
大石内蔵助
生活を送ったまさにその屋敷の、
正門だった建築物。

大石邸は間口28間(約42m)、
奥行き45間(約90m)の広さで、
邸内には「家老屋敷」に相応しい
格調高い庭園も備えられていました。

藩祖・長直公に付き従って
赤穂へ入封して以来、

内蔵助良雄(よしお)、
その父良昭(よしあき)、
祖父良欽(よしたか)の
大石家三代・五十七年におよぶ
生活の場への「出入り口」として、

その暮らしを見守り続けた
゛生き証人″

元禄14(1701)年3月、
江戸城松の廊下にて
主君・浅野内匠頭による
刃傷事件が発生した際、

江戸からの報せを携えた
早野藤左衛門(はやの とおざえもん)、
萱野三平(かやの さんぺい)の両名が
叩いたのも、
この門とされています。
赤穂城 17
現在屋敷内の主だった建物は
すべて取り壊され
残された建築物はこの
長屋門のみ

それでも歴史上に足跡を残した人物の
確かな暮らしの痕跡
触れられることが、
なんだかとても誇らしいものに思えます。

(それがあの「大石内蔵助」となれば、
なおのこと・・・!)
赤穂城 15
向かいには赤穂城の「縄張り」を担当した
近藤正純の子
近藤源八(こんどう げんぱち)が
暮らした屋敷の長屋門
(の長屋部分)も残されています。
赤穂城 18
数少ない「新式城郭」の造りと、
「赤穂義士」の息吹を感じられる、
赤穂城。

続いては「大石内蔵助邸跡」に
鎮座する、
赤穂大石神社へと
向かいます!


参考:赤穂城 公式ホームページ
   城内解説パネル
   Wikipedia
   日本の城



「赤穂義士ゆかりの城」・赤穂城

〒678-0235
兵庫県赤穂市上仮屋1424−1

開園時間
本丸内・二之丸庭園
9:00~16:30
(入園は16:00まで)
それ以外は無休

休園日
本丸内・二之丸庭園
年末年始(12月28日~翌1月4日)
それ以外は無休

お問い合わせ
一般社団法人赤穂観光協会
0791-42-2602

アクセス

山陽自動車道 赤穂ICから
約10分

公共交通機関
JR播州赤穂駅から
徒歩約20分

路線バス(ウエスト神姫)
「御崎線」(「御崎」・「かんぽの宿赤穂」行)
大石神社東バス停下車
徒歩約10分(乗車時間4分)

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。