前回は大分県玖珠町(くすまち)にて、鉄道遺産・豊後森機関庫を
巡った訳ですが、今回はそこから徒歩約30分、
「日本一小さな城下町」とも呼ばれる、森町を
歩きます。

町としての起こりは、かの関が原の戦いの翌年、慶長6(1601)年に、
瀬戸内に勢力を誇った村上水軍の一門、
来島康親(くるしま やすちか)が
玖珠・日田・速見(今の日出町付近)3郡・1万4千石を拝領したことから始まります。
来島氏は天下分け目の大戦の折は西軍に付き、瀬戸内の所領を没収されてしまいましたが、
親類にあたる福島正則(ふくしま まさのり)の取り成しによって、
大名に
復帰徳川家による徹底した処罰が西軍諸将に下される中で、
異例といっても良いでしょう。
ともかくも、伝手を生かすことで、小禄とは言え幕末まで森藩として
家名を残すことに成功しました。


通りの奥に突き当りが見えるほどの小さな町ですが、石畳の両側に
江戸時代の面影を残す建物が並びます。

面白いのが、所々に置かれた石像。
凛々しい桃太郎像や・・・

一寸法師像が(こちらはちょっと及び腰のようにも見えます)。
「童話の町」ならでは、と言うべきでしょうか。
通りの突き当たりは久留島氏(2代藩主の時に改名)の居城・
角牟礼城(つのむれじょう)が置かれた
角埋山(つのむれやま、標高577m)
へと続いています。
その麓に在るのが・・・
旧久留島氏庭園8代藩主・
通嘉(みちひろ)が、山中に鎮座する三島神社と同時期に
造営した庭園。
ここの他に、山麓と山中に1箇所ずつの庭園が設けられています。
藩の禄高を反映してか小規模ながらも、巨石を巧みに組み合わせた
造形が、見事。
ちなみに前回の記事でピンと来る方も居るかと思いますが、
「日本のアンデルセン」こと久留島武彦氏は、
藩主・久留島氏の血筋
池のほとりで一際存在感を放つ巨石・
喜藤次泣かせ石(きとうじなかせいし)
造園の際に人夫頭を務めた
長尾喜藤次が、
桁外れの大きさ故に進まぬ運搬に根負けし、泣き出してしまったという
逸話があるそうな。
職人泣かせの巨石ですが、見応えある景観を残してくれた先人の
努力に、感謝。

続いて山腹に構えられた神社へ。
建物は現存しないとは言っても、大名家の城。
江戸初期の築城様式を伝える石垣や枡形が、
立ち入る者に睨みを効かせています。

城の一角に鎮座する、
末廣神社慶長6(1601)年、初代藩主・
康親が入封とともに伊予国(愛媛県)大三島から
藩の鎮守の神として「三島宮」を勧請。
先ほどの庭園を造った8代藩主・
通嘉の時に
社殿を始め境内が整備され、現在に続きます。
明治5(1872)年にこの地域に祀られていた「妙見宮」を
合祀し、今の名称となりました。

境内に置かれた石は、手と口を浄めるための手洗石。
この用途の石としては
日本一の大きさだそう。
折角なので使ってみようと近づいたところ、水質は良くなさそうだったので、
普通の手水で洗いました(笑)

末廣宮から一段さがった所に建つ
栖鳳楼(せいほうろう)
森藩の茶屋として天保2(1821)年に建てられ、神社の祭典や
月見、あるいは花見の宴に用いられたそう。
内部は残念ながら
非公開となっていますが、1階は茶室風、
2階からは九重の山々や森町が見渡せたそう。
目立つ建造物の無い角牟礼城に於いて、天守にも
似た扱いだったという。
栖鳳楼庭園麓の庭園同様に巨石を配した造園の妙と、九重の山並みを
借景とした構成が光ります。

大正時代築の郵便局として使われていた建物を改装した
Cafe Letras(カフェ レトラス)
周遊バスを待つ間に、一休み。

内部は木材を多用してリノベーションされていますが、
入り口の壁面と天井、照明に当時の面影が残ります。

ケーキセットを注文。ケーキと紅茶をゆっくり頂き、じっくりと本を読めば、町と共に
ゆったりとした時間を送るような心地。
豊後森駅へ戻ってから、列車の待ち時間に
駅前をぶらぶら。夕刻、普通列車で大分市へ戻ります。
朝は鉄道遺産、昼からは町歩きを楽しんだ1日。
今は福岡方面からの交通が分断された状態ですが、
久大本線が復旧すれば、華のある観光列車と共に人の
流れも戻るはず。
その時にまた、この穏やかな町を訪れたく存じます。
それでは!

旧久留島氏庭園の入り口に建つ、桃太郎生誕の像。
そのポーズ、出で立ち、表情が、
なんかシュール