先月末より長崎県は雲仙市で2ヶ月ほどの期間労働。
まだ馴れぬ仕事場と予想以上にハードな仕事に、
恥ずかしながらへとへと状態の「西のノリ」です。
さて、中断を挟みつつ綴って参った宮崎紀行も、
今回が最終回。
「九州の小京都」の異名を取り、城下町が
伝統的建造物群保存地区に指定されている町、飫肥。
その中枢たる飫肥城へと「潜入」します。

やって参りました!伊東氏5万1千石の城・
飫肥城元々は豊後国(今の大分県)を根拠地とする島津氏の
分家が治めていましたが、
戦国時代に日向国(今の宮崎県)中部にて勢力を伸長させた伊東氏が
飫肥へと侵攻。
百年近くに及ぶ攻防戦の末、伊東氏11代・義祐の代に城は伊東氏の物となりましたが、
北上してきた島津本家の攻勢により、
没落その後天下人・豊臣秀吉に仕えた義祐の3男、12代
伊東祐兵(いとう すけたけ)に
旧領が与えられた事により、伊東氏はようやく心願の地・飫肥に腰を据えることとなったのです。
そんな飫肥城も明治6(1873)年に
廃城残念ながら現存する建築物は有りません。

この城を象徴する存在ともなっている
大手門ですが、これも
復元されたもの。
昭和53(1978)年、飫肥城復元事業の一環として
国内各地の城郭に残る大手門を参考に復元されました。
建設に当たっては、飫肥杉材の提供を受けたそう。

大手門を抜けた先には隙間無く塀が張り巡らされ、かつての
偉容を思わせます。

もちろん侵入した敵を迎え撃つ為の設備・
狭間(さま)も
完全装備。日本各地の城郭ではこのような穴から弓・鉄砲を撃ち掛ける事で、
限られた進入路を進んできた敵軍を食い止めていました。

城の奥へと続く石段を進みます。緑化の進んだ部分は
飫肥杉が鋭意侵略中(笑)

ここで注目ポイント。
通路の突き当り、右へ折れる手前に4本の杉の木が向かい合うようにして
立っているのですが、これらの木は
しあわせ杉と呼ばれ、
それぞれの木を対角線で結んだ中心地点に立つことで、
しあわせパワーがもらえるとか。
この手の話には疎い私ですが、真ん中に立って「おすそ分け」に
ありついてみる(笑)

本丸へ向かう途中、
松尾の丸という曲輪に、御殿建築が出現!
大手門同様、飫肥城復元事業により建設されました。
京都・二条城や大分県・岡城を参考に設計されたそうですが、
「復元」でもないということは・・・
なんかちょっと不安。

城主が座し、家臣と対面する部屋をイメージした
御座の間殿様気分での記念撮影も出来るそうですが・・・ぶっちゃけ
デカい照明器具が邪魔(画像左下にちらりとコードが見えています)。

城主が寝泊まりした空間「をイメージした」
御寝所表に面した、開放的な造りとなっています。

御殿の奥にデ~ンと居座っているのは、
蒸し風呂今で言うと「サウナ」のような物でしょうか。
京都・西本願寺の堂宇、国宝にも指定されている
飛雲閣(ひうんかく)に
現存する同型の遺構を参考に再現されているそうで、
オリジナルで無いとは言え、こうして実物を目にする機会は
全国的にも
珍しいそう。
全面に檜材が用いられており、宮大工の手で
2ヶ月を費やして製作されたそうな。
で、その入浴方法が・・・

裏手のかまどから湯を沸かし・・・

床下に見える大鍋から床板の隙間を通して蒸気を放出。
上部の窓や正面の板戸を開閉することで、温度を調節したそうな。
そうして流した汗は、湯殿手前の板敷で水、もしくはお湯で洗い流して
仕上げ。板敷は水が流れやすいように傾斜が付けられており、
考え抜かれた構造となっています。

城の最奥部、石段を上がった先が
旧本丸かつてはここが城の中枢でしたが、1600年代に来襲した3度に渡る地震で
地割れが発生、元禄6(1693)年に
本丸は移転となりました。ちなみに新本丸の方は、現在
小学校と
なっています。

本丸移転以降放置されてしまったであろう場所は、背の高い
木々が天を覆う
杉林と化していました。

だいぶ陽が傾いて参りました。
飫肥駅から列車を乗り継ぎ、大分へ戻ることとしましょう。
太陽の国・宮崎県は日南を旅した4日間。
好天にも恵まれ、自然・文化・美味に触れられた有意義な
旅であったと言えるでしょう。
次は宮崎市内をじっくり巡るか、足を伸ばして霧島方面へも
行ってみたいですね。
次回は赴任の途上、少年時代以来の訪問となる
長崎県諫早市(いさはやし)の様子をちら見せ。
水と闘い続けた街に残る、先人の知恵と工夫を目にします。
それでは!

空を泳ぐ鯉