昨日はお休み!という訳で、兼ねてより計画していた通り、
島原市の中心地へお出掛け!
城下町・島原のシンボル・島原城と、その近辺に
位置する武家屋敷を訪ねます。

島原市街地まではバスでの移動。
車窓からは平成2(1990)年~平成7(1995)年に起きた
雲仙岳の噴火活動によって形成された溶岩ドーム・
平成新山(標高約1483m)の
荒々しい山体を望むことが出来ます。
多くの人命を奪い、地域に多大な影響を及ぼした災害から20余年。
上部に剥き出しとなった火山岩や火砕流が斜面を駆け下った跡が、
見る者に自然の脅威と災害の記憶を教えます。

地域の足・
島原鉄道のターミナル・
島原駅城下町ということを意識してか、大手門を想起させる造り。
入り口の横にこれまた城門風の扉が設けられていたりと、何気に
ハイクオリティ!構内には土産物を販売する売店や、観光案内所が併設されています。
私もここで観光パンフレットをゲット!
こちらにいる間、存分に活用させていただきます。
駅前から真っすぐに歩いて、突き当たるのが・・・
島原城着工は元和4(1618)年、大和国(奈良県)五条から島原(当時は日野江)へ
転封となった徳川家家臣・
松倉重政(まつくら しげまさ)の
手による。
築城の名手と謳われた重政の築きし城は、見ての通り4万石の少禄には
過分としか
言い様のない規模。
当然領民への負担は大きく、7年といわれる工期の間、多大な労役と
過酷な重税を課すこととなり、その後の収穫量を問わぬ厳しい年貢の取り立てや、
情け容赦ないキリシタン弾圧といった
政策の積み重ねから、息子・勝家(かついえ)の代には
日本史上稀にみる規模の農民一揆・
島原の乱が発生。
鎮圧後、圧政と一揆発生の責を負うこととなった松倉勝家は、所領没収の後、
斬首松倉家はお家断絶となりました。
その後島原藩は高力家(こうりきけ)・松平家・戸田家といった幕府の譜代大名によって
治められ、明治時代の廃城令によって
廃城全ての建造物が解体となりましたが、昭和期半ばに
復元され、かつての広大壮麗なる姿を取り戻しています。

高さと勾配が有るだけでなく、複雑に組み合わされた石垣や・・・

幾重にも連なる櫓や塀が、鉄壁の防御を成しています。
島原の乱の際、籠城策を採った島原藩に対し、一揆軍はここを攻める事なく略奪と放火に止めたと
言われていますが、それもこの堅固な守りあってのことかも知れません。

本丸の裏手に設けられた入り口から、侵攻!
こちらの石垣も、見上げるほどの高さ。
島原城天守高さ30m、5つの階層を積み上げた
層塔型と
呼ばれる構造になっています。
城内の他の建造物同様、明治の廃城令によって解体の
憂き目に遭いましたが、昭和39(1964)年に復元され、
天をも衝かんばかりの威容が蘇りました。
なお、内部は資料館となっており、藩政時代の武具や
生活用具、骨董品等が展示されていますが、
中でも興味を引かれたのが、1階の
キリシタン資料館島原地域に於けるキリスト教の布教から弾圧、反乱から「隠れキリシタン」として
潜伏する過程が文書や絵画、美術品や彫像を通して
解説されており、拷問や処刑を辞さぬ幕府や島原藩の徹底した
弾圧の苛烈さ、絵図に描かれた処罰の凄惨さに
絶句死してなお、あるいは表向きカムフラージュを施してまで
侵攻を守った人々の覚悟と労苦が偲ばれます。

最上階は
展望台!そこからは島原市街はもちろん、
有明海や対岸の
熊本県、さらには
雲仙の山々が一望の下!

なんと、熊本県の名峰・
阿蘇山(左手)まで見えます!
島原市街の背後に聳える、
眉山(まゆやま、標高約818m)
実はこの山も、島原半島の災害の歴史と街の形成に大きな役割を成した所。
寛政4(1792)年に起こった火山性地震と雲仙・
普賢岳の
噴火活動の末期、
眉山に形成されていた溶岩ドームが
崩壊一気に崩れ落ちた山塊は島原の城下町を巻き込みながら
有明海へと突入。
膨大な質量によって発生した大津波は、島原地域と対岸の肥後国(熊本県)にまで
多大な被害をもたらし、1万5000人の犠牲者を出す、日本史上最大の火山災害となりました。
一連の出来事は
島原大変肥後迷惑と
呼ばれ、当時の人々の記録と記憶に深く刻まれました。
その名残は大地に深く刻まれ。
眉山の左手が大きく削られている他、
島原周辺の地形が大きく変貌。
海岸線は大きく後退し、島原市街地には山から流れ出た
森が残された他、
沿岸には
九十九島(つくもじま)という
無数の小島を生み出しました。

眉山の背後からは、
平成新山もちら見え。
平成と江戸。それぞれの時代に災厄をもたらした山が、同時にこの地域
独自の景観を生み出したのだから、何とも皮肉なもの。

天守を下り、城を出たらお昼ご飯。
やって来たのは江戸時代から地元の味を守る老舗・
姫松屋 本店店舗自体は移転によって平成8(1996)年にオープンした
比較的新しい物ですが、別の場所にある元々のお店から
生まれた、伝統の味を守り続けています。

そんな「姫松屋」伝統の味が、郷土料理の
具雑煮(ぐぞうに)
優しい味の和風だしに、餅・レンコン・鶏肉・椎茸・玉子焼き・
穴子等々、13種もの具材が入っています。
で、この料理のルーツとなったのが、あの
島原の乱幕府軍から逃れて一揆軍が原城に立て籠もった際、
総大将・
天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)は
農民たちに餅を食料として蓄えさせ、それに山海から集めた具材を
合わせて雑煮を炊かせ、そうして栄養を摂りつつ三か月もの
戦いを可能としたとか。
それを元に文化10(1813)年、初代・
糀屋喜衛ェ門(こうじや きえもん)が
アレンジを施したのが、今へと続く島原の味の始まりだそう。
老舗料理屋で腹を満たし、街歩きは続きます。
次回は城の外、藩主に仕えた武士たちの屋敷が残る、
武家屋敷を巡ります。
それでは!
平成新山と島原城天守